私には森田ミツについて、一つ印象深い出来事がある。
あれは大学一年のとき、サークルの先輩(男)が突然こんなことを言いだしたのだ。
「あいつを見ていると、森田ミツみたいなんだよな。危なっかしいというか、心配で仕方ないというか…」と。
彼は何の前触れもなしに、「森田ミツ」という固有名詞を口にしたのだ。そして「え、森田ミツって誰?」と聞いてきた周囲の人間に、わざわざ説明していたので、随分と無神経な言動だなと思った。
彼にあいつ、と言われた女の子は、幸いなことに私ではなく、別の女生徒であったが、その子は少しぽっちゃりしていて色の白い、愛らしい顔立ちをしていた。話し方も福岡弁丸出しで訥々としていて、たしかに(当時は)世間知らずで、純情で、人の良い笑顔を浮かべていたものだ。
私はその言葉が彼女の耳に届かないように祈った。森田ミツという女性をどう捉えるかにもよるが、女性に例えとして使っていい形容句には思えなかったからだ。
その後彼女は飲み会になるたびに、われを失うほどに酒を飲み、暴れ、みなに介抱され、「あいつには飲ませるな」という要注意人物になってしまった。
これまで彼女は両親に大切に育てられ、大学入学のために田舎から出てきて初めての一人暮らし、初めてのお酒、初めての男友達…と、どう自分が振る舞ったらいいか悩み、揺れていたようだ。
実は彼女は彼女を森田ミツと例えたその男に恋心を抱いていたようだった。今思うと、彼女を森田ミツ、と評した彼の心にも、もしかしたら吉岡のような一面もあったのだろうか…。
その後わざわざ彼は彼女を目の前にして「お前は森田ミツみたいだ」と言ったようで、面と向かってそんなことを言う無神経さにも驚いたが、彼女が後から小説を読み、森田ミツという女性を知ってショックを受けていた。私・・・そこまでお人よしじゃないよ、とつぶやきながら。
森田ミツという女性に対する感じ方、とらえ方は人さまざまであると思う。愚鈍な女か、善良な女か、聖女か。それは読み手の人生哲学・価値観と合致するのかもしれないが、カトリック教徒であり、信仰と文学を終生のテーマとした遠藤周作は、ミツをキリストに例えたようだ。
救いようのない現実の中にも、森田ミツのけなげさ、特定の宗教を持たないのに、まるで聖女のような心持ちに、吉岡の行為が利己的であったほど、読み手も心あらわれていく。
私自身にとっては、救いがあるようでないような、やり場のない感情が胸に突き上げてきて、深い、底なしの井戸の水面をのぞきこむような、人生の深淵さと畏怖を感じざるを得ない小説のひとつである。