外国の文化を知ること、その意味は何か。比較文化論は流行ではない。あらためて問うこともないようであるが、これだけ世の中が混沌としてくると、迷路に踏み込んで出口がうまく見出せないでいる。信ずるものに見事に裏切られることが常態となりつつある。必要なのはこうした底なし沼の閉塞から脱出することである。そして、その方法のひとつが海外での暮らしである。もっとも,だれもが実際に経験できるわけではないかもしれない。
旅をするもただ表層的に通り一遍となり、面白いはずのものがつまらなく見えてしまうことがある。そんな時代背景のなかで、本物を見つけることの喜びを知る。本書とともに仮想体験ならできる。要は、経験よりも想像力である。
著者は、フェラーリの日本人デザイナーとして知られている工業デザイナーである。カーデザイナーとして、アメリカ、ドイツ、そしてイタリアの3カ国に住む。本書では,イタリア式ものづくりを通して、文化や考え方(思想)の違いを綴っている。他方で、著者は自分が東京人ではなく地方人(山形人)であることを明言し、本著の立脚点にもなっている。
著者は、アメリカ式(大量生産)ではなくイタリア式ものづくり(手づくりの少量生産)の典型をフェラーリにもとめ、そこに日本の伝統文化との共通性を発見する。職人である。単なる専門家ではない、「信じるもの」に従って仕事をしている人である。「フェラーリ」によって今日と外国を、「鉄瓶」によって過去と日本を代表させる。とはいえ鉄瓶は和鉄ポット「繭(まゆ)」として過去と現代を融合する。「繭(まゆ)」は、フェラーリが職人文化に支えられているように山形の鋳物職人文化に支えられている。「日本文化を継承しながら、現代の生活を犠牲にしないものを作ろう」というのが、筆者の哲学である。
デザイナーも職人もコミュニケーション能力をもてという。そして、「人よりモノ」あるいは「チームより個人」を考えろという。一般的な見識と逆である。「百聞一見」、昔から言い古された言葉である。逆に「一聞百見」という見方も成り立つ。日本では何でも東京経由であるが、イタリアではローマ経由のイタリア文化はほとんどない。デザイナーの眼は時空に制約されない。一味違ったエッセイである。