さて、次にサガンの晩年の傑作『逃げ道 Les Faux-Fuyants』(原著1991年)を紹介しよう。これがね、え、まさか、これがほんとにサガンの作品なの!?? というような爆笑コメディ。舞台は、1940年、しかも六月十四日にはパリにナチの戦車が侵攻してきた、忘れたくても忘れられない悪夢のような時期。パリのフランス人はみんなとっくに命からがら疎開していて、もはやパリには老人と貧乏人しか残っていない。そ、映画『カサブランカ』の時期。フランス全土はすでにナチスドイツに占領され、誰もが陰気な日々を送っていて、きょくたんなはなしユダヤ系フランス人なんてもう、いつナチに逮捕されて収容所に送られるか、生きた心地がしない。この、地獄の釜の蓋が開いたような時期が、しかし、サガンの手にかかったとたん、「一九四〇年、六月ーー。高級リムジン、シュナール・エ・ワンケルは、明るい陽光に輝きながらも、前後をーー時には脇さえーー騒々しいエンジン音をたてている薄汚れた車の連なりにふさがれて、身動きもできずにいた。」って書き出しになるわけ、まるで夏のバカンスの快楽が交通渋滞で汚された、みたいな書き方じゃないか。サガンのこの小説もフランスを脱出すべく、リスボンを目指し、リスボンから高級船舶で一路ニューヨークへ向かう予定なんだけれど。さぁ、どうなることやら。
でね、その「高級リムジン、シュナール・エ・ワンケル」に乗ってるメンバーがまた、セレブなの。いちばん年長で裕福で高飛車なディアンヌ・レッシング、彼女は「パリ陥落という事態において脱出が遅れたのは、ディアンヌにとっては、バイロイト音楽祭の初日に出席できなかったようなもので、とうていプライドが許さなかったのだ」なーんて形容されるようなおばさま。そしてリュース・アデール。彼女は二十七歳、若くて美人、富豪の妻ながら、夫は不在がちで淋しい、そこでイケメンのブリューノー・ドロールを愛人にしていて、社交界のお仲間にはひそかに、その男選びのセンスをいささか疑われている。そして長いこと外務省で事務方のゲイで、ふつうに考えればふつうに高収入ながら、しかしかれの愛する社交界にあっては、貧乏な部類で、もっぱら人柄の良さでもって社交界に留まり続けているロイ・レルミット、そう、苦労人ですよ。そして若い伊達男、ブリューノー・ドロール、イケメンでもててますが、リュースの愛人であることのほかにはなんのとりえもありません。かれら四人は、それぞれの事情で、疎開に遅れ、気がついたときにはもうパリでは電車が止まっていた。金持ちで社交界大好きな(とはいえどこかまぬけな)そんな四人が、高級リムジンで遅ればせながらパリを脱出する。
むろんそんなかれらにも、ナチスドイツの爆撃は容赦ない。かれらは車でパリから脱出する途中、ドイツ軍による機銃掃射を受け、車の運転手は即死してしまう(かわいそうに雇われ運転手のジャン!)。同乗の四人は一命を取り留めたものの、車も壊れ、動かなくなる。かれらは田舎のど真ん中に取り残されたのだ。そこに若い(絵に描いたような田舎者の)農夫とその母親が現われ、かれらは、さいわいにも泊めてもらえることに。ふだんは五つ星ホテルか、瀟洒なオーベルジュくらいしか泊まらないような社交界の四人が、貧しく薄汚くも、心優しい農家の家族に助けていただくわけである。しかもその農家にはわけのわからないことを叫び続けている歯と子音の抜けた老人や、わけのわからない言葉をわめく知恵遅れの青年がいて。すなわち、ふつうだったら決して出会わないふたつの階級が、ここで出会う。
さぁ、ここからがおもしろい。若いマダムは農夫と恋におち、そのたくましい性表現に頬を染め、きどったジゴロは近所で有名な変人に惚れられ、スノッブなゲイと目されていた外務省の役人は肉体労働の素晴らしさに目覚め、高慢なマダムは無能扱いされながらも農家のおかみさんに奇妙な友情を感じるようになる。戦時下におもいがけず農家の世話になり、その環境のなかで、かれらはパリの社交界にいたときのキャラクターとはまったく別のなにかに、目覚めてゆく。しかもこの作品にあっては、一方でブルジョワジーがそのまぬけぶりにおいて揶揄の対象にされ、他方で、農夫の粗野や非文化性が笑いの対象にされ、すなわちふたつの階級がいずれも平等に笑いの対象として、容赦なく、ネタにされ続けてゆく。なんともめちゃくちゃにおかしくって、ページをめくるたびに笑いがこみあげてくる。