だが、それではあまりにも有利すぎる。そこでさまざまなマイナス因子を掛け加え、結局六百分の一にまで確率を減らしていく。それでも、イエスたちの墓である可能性は、あまりにも高すぎる。
彼ら二人に、もう一人のプロデューサーが加わる。それが映画「タイタニック」の大ヒットで一躍大金を手にしたジェームズ・キャメロン監督だ。彼はこの「キリストの棺」調査をディスカバリー・チャンネルの番組に仕立てる。他にもイギリスのチャンネル4やカナダのヴィジョンTVが出資し、この衝撃的な映像を世に送り出す。
このイエスの棺は、大きな意味を持っている。それは、イエスなどいなかった、とキリスト教を否定してきた意見に対して、キリスト・イエスは実在したのだ、というはっきりとした証拠を差し出したことだ。実在した人間であることの重み。あるいは温かな血の流れていたイエスであったからこその、彼の言葉と教えの重さと深さ。
だがしかし、さて、このキリストの棺の発見は、キリスト者にとってはどんな意味があるのだろうか。キリストは霊的な信仰の対象だったのに、実在の人物としての墓が見つかったことに、彼らは不満を覚えるだろうか。嘘だと断じるだろうか。それとも実物だと認めたとしても、汚されたと感じるだろうか。あるいは、新たな感動の物語として受け入れるだろうか。
ぼくは――ぼくもまた聖公会の教会で洗礼を受けたキリスト者の一人、なるほどその端っこにもいられないような不熱心な信者の一人ではあるけれど、ぼくにはこの発見は、不謹慎に言えばとても興味深かった。
それから、感動的であった。キリストは生きていた、という事実が、ぼくの心を揺さぶった。その粗末な棺、そして中に入っていた彼の衣類だと思われる繊維の破片は、実に藁を叩いて作ったものだった。その質素で、誠実な感じが、ぼくの信じたかったイエスそのものだと思われるからだ。
これまでも、新約、旧約聖書のほかに死海文書をはじめユダの福音書など、多くの外典の資料が発見されている。キリスト教は変わるだろうか、と考える。このような事実の積み重ねを反映して、キリスト教は変わっていかなければ、それこそかつて誰かが信じていた滅亡近い宗教になってしまうのではないかと、ぼくなんかは思うのである。