もちろん戦後日本映画を代表する二枚目スターのひとりではありますが、ご本人もエッセイ中でしばしば諧謔ぎみに言及している「ハチの開いた」頭の形をはじめ、池部良は「彫刻のように整った美男」とは言いがたい、どちらかといえば個性的な容貌をもった男性スターです。しかも、これまた少々失礼ながら、演技力、剣戟をはじめとするアクション、歌舞音曲等々、とりたてて衆に優れた一芸を身につけているようにも見受けられません。本書第三章に収録された、東映の『昭和残侠伝』シリーズで名コンビを組んだ高倉健からの書簡にある、「池部先輩は、俳優として決して器用な方だとは思えません」(270ページ)との評は、やはり的確なものだといえるでしょう。
しかし、金井美恵子氏の近刊『楽しみと日々』(オブジェ:金井久美子、平凡社、2007年)に、「清潔で美しい男などというものは、〔中略〕中年でも美しかった池部良をパーティーの会場で見た記憶があるくらい」(143ページ)という一節を見つけて、あの厳しい金井氏の目にも、やはり池部良は「清潔で美しい」と映ったのだなあ、と、本文の主旨とはあまり関係ないところで感心してしまったのですが、どんな映画でどんな役柄を演じていても、スクリーンの中の池部良には、やはりはっと目を惹きつけられる、際立った美しさ、清潔さ、気品があることは間違いありません。
おそらく「映画俳優・池部良」の魅力とは、たんに「すぐれた演技力」や「美貌」といった特定の属性に還元しうるものでも、ある具体的なひとつのキャラクターのイメージに収斂しうるものでもなく、本書の冒頭で「対極的なジャンルを横断し、異なる映画システムを潜り抜けた」(9ページ)と評されるような、融通無碍な捉えがたさにあるのかもしれません。
たとえば、31歳のときに出演した『青い山脈』(監督:今井正、東宝、1949年)では、18歳の明朗快活な高校生を演じていたかと思えば、そのわずか3年後に出演した渋谷実監督の快作『現代人』(松竹、1952年)では、大胆不敵な汚職官僚という魅力的な「悪漢(ピカロ)」を演じてみせます。あるいは『暁の脱走』(監督:谷口千吉、49年プロ、1950年)で、帝国軍人としての責務と、慰問歌手・春美(山口淑子)との恋の間で揺れ動く三上上等兵を凛々しく演じ、迫真のシリアスな演技を披露したかと思えば、やはり山口淑子と恋人同士を演じた『白夫人の妖恋』(監督:豊田四郎、東宝=ショウ・ブラザース、1956年)では、山口淑子・八千草薫の妖怪コンビに翻弄されて、あっちによろよろ、こっちによろよろ右往左往する、まさに「つっころばし」と呼ぶにふさわしい頼りない色男に扮しています。小津安二郎監督の『早春』(松竹、1956年)や、豊田四郎監督の一連の文芸作品など「格式の高い」作品に乞われて出演したかと思えば、かたや、中川信夫監督の迷作にして怪作『吸血蛾』(東宝、1956年)に金田一耕助役で出演してはいるものの、破綻しきったプロットの中、関係者一同が勝手に死に絶えてゆくのを、ほとんど何もせずにただ挙手傍観しているばかり―。