何はともあれ一杯と、お涼がすすめてくれた<沢の鶴>の辛口は、湯気が立つほど熱くて、曠吉の腹に沁みた。軒燈も消えて、夜風が障子戸をカサカサと鳴らし、いつもならこの時刻にやってくる新内流しの声も、火事があったせいか今夜は聞こえない…とか。
「女が気落ちするのに、きっかけなんざありませんよ。ふと気がつくと、苛々(いらいら)気が立っているんですよ。それが自分で侘しくて、もうひとつ気が滅入る―そんなあたしを見るのが嫌なら、もうここへは来ないでくださいな」
知らない人間が聞いたら、日陰の路地に咲く花と、嘴(くちばし)の若い燕(つばめ)との、綾に縺(もつ)れた遣り取りである…とか。
大向こうから思わず声を掛けたくなるような、粋な表現、文句がいっぱいで嬉しくなってしまいます。
オムニバスのように繋がる、この物語の第二話は、曠吉の嫂(あによめ)小春とのもやもや。第三話は、川口松太郎の講演会で出会った一高の詰襟の制服に破れマントを羽織った学生・桂木の女、菜穂との九尺二間の恋。第四話は、阿佐ヶ谷のアパートに移った曠吉と、襟ぐりの大きなオレンジ色のワンピースが似合う獏錬女(ばくれんおんな)、藤子との悶着。ここでも、菜穂との恋同様、天丼が三十五銭、酒が一升一円という時代に、五百円の手切れ金が動いたりする男と女のどろどろが。そして、第五話は、千恋という謎の娘との出会い。そのすべての話の狂言回しに登場して来るのが、三味線の師匠お涼と、粋な都々逸の文句。読んでる私の耳元にまで三味の音が聞こえてきそうでありました。
白鷺は
小首かしげて 二の足踏んで
やつれ姿を 水鏡~
おや そうかい
表向きでは切れたと言って
蔭(かげ)で繋がる 蓮の糸~
色で迷わす 西瓜でさえも
中にゃ苦労の 種がある~
花に曇りし 心の迷い
ひとり思案に 暮れの鐘~
人に言えない 仏があって
秋の彼岸の 回り道~
曠吉の「曠」の字は、「曠野」の「曠」。字引で調べたら、<明らかに、遮るもののない様。広くて大きな様>とあったが、その下に<空しい様>ともうひとつの意味が書いてあった。「曠年」とは<久しい年月を、空しく無駄に過ごす>という意味。「曠」の字を、おでこの正面に貼りつけて、世間を渡っていくのも面白い。と、この若き主人公には、いつもしらけ鳥が飛んでいる。
そんな久世光彦のちょっと退廃感を漂わす昭和の世界は、正に彼の独壇場。
場面によっては、なにやら隠微な風も吹いてきて、とてもロマンポルノな風情。著者が憧れた、小さな人情話の中で、馬鹿な男や、馬鹿な女たちが細い溜息を洩らす川口松太郎ワールドを、昭和の時代に甦らせた、この「曠吉(こうきち)の恋」。背戸の軒端にしまい忘れた風鈴が秋風にチリンと鳴るような、たまらなく愛しい物語たちなのであります。