90年代から00年代にかけて、多くの海外ミュージシャンの紹介と招聘を自ら手掛け、音楽誌『FADER』を立ち上げてあらたな音楽的言説の場を用意するなど、きわめて実践的な活動を続けてきた音楽批評家、佐々木敦。この『絶対安全文芸批評』は、彼にとってはじめての「文芸批評」の単行本である。
「絶対安全」とは、彼がいわゆる「文芸誌的世界」の外側に立って、文学的アウトサイダーの立場から「文芸誌的世界」の内側にある作品を「批評」してみる、という試みについて、若干アイロニカルなかたちで表現した言葉である。ここでいう「外側」とは、指向的・精神的なものではいささかもなく、端的に、第一章にまとめられた「絶対安全文芸時評」が、「INFASパブリケーションズ」を版元とする一般誌『スタジオ・ヴォイス』を舞台に発表されていたということを指す。日本の「(純)文学」界は、『文學界』(文藝春秋)、『新潮』(新潮社)、『群像』(講談社)、『すばる』(集英社)、『文藝』(河出書房新社)という、この五つの「文芸誌」に掲載されたもの以外を、基本的に(芥川賞の候補作がほぼすべてこの五誌を発表の媒体とした作品から選ばれていることからも分かるように)正統な「文学作品」とは見なしていない、という、厳然たる「内/外」ラインが存在しているのである。内容よりも媒体が重視されるこの陣取りゲームにおいて、「内/外」に仕切られた言葉が互いのラインを乗り越えて干渉しあうということは、基本的にまったくないと言っていい。このような、「文芸誌=掲載誌」がほとんど「業界誌」と化している日本文学の現状について、ここで何か批判的なことを言おうとは思わないが、佐々木敦は、ほとんど決然たる意気込みでもって、二〇〇六年から毎月毎号の「文芸誌」のすべてを読み、そこに発表された「文学」の出来不出来を、カルチャー誌である「スタジオ・ヴォイス」で報告する、という作業をはじめたのだった。
音楽にも「業界」があり、クラシック音楽の専門家は最新のダンス・チューンについての知識を持たなくても(もちろん、その逆も)当然とされているが、言葉の世界の巨大さに比べて、やはり「日本文学」の「内/外」の線引きによって仕切られた世界の小ささは特別なもののように思う。佐々木敦には、「日本」でも「文学」とも、極端にいうと「小説」とも関係がない、いわば、「書かれているもの」、「書かれてしまったもの」への直接的な偏愛がある。佐々木敦の大著『ex-music』の「ex」が表しているもの…音楽の「外部」であり、「元」音楽であったもの、という、この「ex」によって導入される「距離」、対象から身を引き剥がすこの距離そのものへの執着が、文学の「内/外」を一旦は受け入れながら、その機能を積極的に失効させてゆこうとする佐々木敦の読書と批評を支えている。書くこと=読むことは、自身と世界を不断の「ex」に晒すことである。この根源的な姿勢を、「文芸誌的世界」というあまりにもドメスティックで具体的な状況と関係させてゆくこと。現在の日本文学シーンを俯瞰する第一章の「時評」が、この世界に不案内な人間にとっては非常にありがたく、勉強になるが、次の批評には、このような彼の「ALL EXCEPT ME」的資質を全面的に稼働させてくれる作家との出会いと、長文の作家論を希望したい。