著者の森史朗は、松本清張の担当編集者だった人である。
著者は、清張のあるサスペンス長編について、殺人を犯してしまう主人公は、まさに作者、松本清張自身であるというのである。
昭和19年6月、九州の小倉で印刷業を営んでいた松本清張のもとに「赤紙」が舞い込む。敗色濃くなったこの時期の召集は、そのまま「死」を意味していた。そのとき清張、35歳。一家の主として家族と両親の生活をひとり支えていた清張は、急転、絶望の淵に立たされる。
と同時に、自分のような中年(おまけに虚弱体質)がなぜ、という疑心が頭をもたげる。そしてそこには、あるカラクリが隠されていた。
思い出されるのは、前年、教育召集の検査場での場面だった。
「教育召集」とは、兵役義務のある男子を数ヵ月間入営させて軍隊生活を体験させるというシステムで、そのときもなぜ自分のような妻子持ちがと疑ったが、前線へ出るわけではないし数ヵ月間だけのことだからと自分を納得させて検査場に向かった。
が、思えばあのときの係官との会話が妙にひっかかる。
「おまえ、教練にはよく出たか」
と係官は聞いた。「教練」とは、民間の在郷軍人会が主宰する町内の軍事演習のことで、大黒柱として家業に忙しい清張は、ほとんどこれに参加していなかった。
「あまり出ていません」
と正直に答えると、係官はなるほどという顔で、
「ははあ、それでやられたな」
とつぶやいたのだ。
教練に参加しなかった、その懲罰としての召集だというのか。そして今回の「赤紙」も──。清張の疑心は、確信となっていく。
こういうのを「ハンドウをまわされる」というらしい。当時、同じようなことが日本中であったという。「ハンドウをまわされる」、意味は不明だが、意味不明なだけに、よけいおぞましい響きである。では、誰がハンドウをまわしたのか。清張の「召集令状」への執拗な追求が始まる。
こうして生まれたのが、サスペンス長編『遠い接近』である。