昨年このデビュー短編集を出したばかりのレベッカ・カーティスは作家ジョージ・ソウンダースの愛弟子であり、本国のアメリカで最も注目されている新人作家の一人である。短編がいくつか続けざまに権威ある文芸誌「ニューヨーカー」に掲載され、それらの作品をまとめたこの短編集はニューヨーク・タイムズが選ぶベスト100に選ばれている。大御所の作品や大ヒットしたノン・フィクション本に混じって選出されたのだから、業界内外から大変に期待されていると考えて間違いない。
まだ二十代のカーティスは現在、ブルックリン在住のニューヨーカーだが、もともとはニューハンプシャーの出身で、彼女の代表作はほぼ全てがニューハンプシャーのさびれたリゾート地を舞台にしたものだ。冬にスキー客が来る雪山があり、湖のそばには避暑を過ごす贅沢な人たちのための別荘がある。つかの間の休暇を過ごすにはいいところかもしれないが、そこに住む人には、この土地は結局のところ閉鎖的な田舎に過ぎない。
カーティスは、そんな町で行き場のない不安や不満を抱えている貧しい女の子たちを描く。「貧しい」とか、「貧乏な」というよりも、もっと切実に「お金がない」といった方が、ヒロインたちのキリキリとした心情が伝わるだろうか。作品集の副題は「愛とお金についての物語」。
登場人物たちに、そのどちらの持ち合わせもないことは言うまでもない。
冒頭を飾る「ハングリー・セルフ」は、湖のほとりの中華レストランでウェイトレスをしているフリーター女子が主人公だ。かつて自分のカウンセラーだった女が客として来て、彼女は屈辱に打ちのめされる。女は太った同性愛者であり、主人公からすればこれ以上ないほどみじめな人間なのだ。そんな人から同情の眼差しを浴びながら給仕をし、人生の敗残者だと決めつけられるのが彼女にはたまらない。
「双子との夏」もこれまたウェイトレスの話。夏休みに裕福な双子の姉妹に誘われて、ニューハンプシャーの湖畔にある彼女たちの別荘に泊まりながらバイトする大学生女子が語り手だ。本当にお金が必要な彼女自身は不器用でウェイトレスとしては失敗ばかりしているのに対し、ゲーム感覚でバイトする双子たちはちゃっかりズルして客からチップをせしめ、たんまり儲けてしまう。そのことが、古株の本職ウェイトレスの立場を圧迫する。労働の場でブルー・カラーの生活者がブルジョアを逆転するという構図はここにはない。弱く不器用な者は仕事にも、お金にも、愛にさえも事欠く。小さなレストランでの闘争に格差社会の縮図を見るようだ。
二万ドルという金額を示す表題作では、軍部で仕事する夫に会いに行こうとする妻が、高速料金が払えずに窓口の女に母の形見である古いコインを渡してしまう。やがてそれが二万ドルの価値があることが分かり、更に彼女はコインと共にもっと大事なものをそこで売り払ってしまったことを思い知るのだ。そんな母を見ながら、幼い娘はただマクドナルドのハッピー・セットにありつくために見知らぬ人に嘘をつくことを覚える。
ストーリー・ラインだけ書き出してみると悲惨な話ばかりだ。しかし、自虐まじりの冷静なモノローグに貫かれた文章は、飄々としていて、どこか可笑しい。その惨めな状況を自分で笑っているような、不思議な図太さがある。カーティスの小説は息苦しい思いをしている地方在住フリーター女子のための、明るいブルースなのだ。ニューハンプシャー物に混じって収録されているシュールでポップな掌編にも、乾いたユーモア感覚が見られる。自分の生活を立て直すことの出来ない貧乏な女子たちを描いても、暑苦しくならず、クールなところが新しく、それこそ日本のフリーターにもフィットしそうな感じだ。
カーティスは同時に生きることに厳しさに容赦しない作家でもある。「アルペン・スライド」で夏の雪山にレジャー・ランドを設立する男に憧れた少女の淡い想いは、その男の残酷な一言で押しつぶされる。
プロム・パーティの夜に湖で悲劇が起きる「魔女岩」では、その事件のせいで、主人公の貧しい義父がプライドの拠り所であったヨットを手放さざるを得なくなる。そして「スノー・コーン・カート」では、不器用な故に精神薄弱者とレッッテルを貼られた女性が、自分の姪に愛を注ぐことを姉に禁じられる。両親に勝手に不妊手術を施され、バイトの学生に奪われるかもしれないような単純労働に従事する彼女が、苦労して姪へのバースデイ・プレゼントを用意する過程を知っている読者も、主人公同様にあの展開に打ちのめされることだろう。そしてラストに用意された「救い」の形に、ただシニカルなだけではない、レベッカ・カーティスの作家として本質を見るのである。
カーティスは現在、アルメニア人虐殺をテーマにした長編を執筆中だという。そちらも楽しみだ。「あんまり小説でひどいところだと書いたから」と、ニューハンプシャーの故郷の町の私的観光案内を最後に載せるセンスも可愛らしい。