書評における最大のタブー・禁じ手・ご法度に「オチや結末をバラす」というのがある。この【Book Japan】編集部からの、依頼書という名を借りた指令書にも、「オチまで書いてしまうようなことは、もちろん避けてください」と記されている。「もちろん」である。「常識」なのである。
だが、根っからのアマノジャクである私は、一度でいいから、この禁忌を破ってみたいと常々思っていた。……そして、今、やっちまうことにした。本当に、やっちまうよ。
「この本は、水に対して恐怖心まで抱いていた著者が、レッスンに通い、結末では見事に泳げるようになるまでを描いたものである」
ふうっ。……禁じられた世界に、足を踏み入れてしまったはずである。「王様は裸だ」と叫んだ少年並みに、勇気ある行動をとったはずである。だが、私の心には虚しさだけが残った。理由は、この本だけは結末を書いても絶対に許されるからだろう。なんたって、私の手元にある本の帯には、版元自ら「そして2年……今は、南青山のトビウオと呼ばれている」と、堂々と結末を明記しちゃってるんだから……。
たとえて言えば、勇気を振り絞った少年の「王様は裸だ!」という告発に対して、「はいはい~、こちら、ただいま裸ですよ~」とプールサイドでトロピカルカクテル片手に日光浴中のようなシアワセな返答をされたようなもの。……そりゃあ、ないだろう。
しかし、とにかく面白い本である。冒頭のほうで、著者の高橋秀実氏、通称「ヒデミネさん」は「泳げない仲間」の木村さんとこんな会話をする。
〈――基本的に、泳げる人は人間的に冷たいんでしょうか?
私が言うと、うれしそうに木村さんがうなずいた。
「そう。あいつら目つきも悪い。なんか吊り上ってる」
単にゴーグルのせいではないかと思ったが、言わんとする心情は理解できる。〉
この時点ですでに読者はすでに「ヒデミネワールド」ともいうべき大海原に、ずぶずぶと半ば強引に引きずり込まれているだろう。一言、著者にツッコミを入れさせてもらおう。「お前はカッパか!」と。
そして、著者はスイミングスクールに通うことを決意する。ところが担当の桂コーチの助言というか指導内容は毎回コロコロと変わる(生徒たちの間では「進化」と呼ばれている)。その一つひとつをなんとか理解しようと、ヒデミネさんは腕よりも先に、脳をフル回転させる。水の中でよりもまず、頭の中でもがき苦しむのである。
泳げる人にしてみたら、明らかに「考えすぎ」なのだが、かつて「泳げない人」であった私にはなんとなくわかる(しかし、「泳げる人」と「泳げない人」との間にあるのは単に水だけのはずなのに、ものすごく高く分厚い壁を感じるのは、かつて私があっち側の人だった経験があるからだろう)。
さて、「考えすぎ」のヒデミネさん、あるときまたまた「進化」した担当コーチに、「水中では(中略)見えるだけでいいんです。見ようとしてはいけないんです」と教えられれば、「陸上と違い、水中では滅私の視線でいなくてはならない」と考え、「仏像が確かそのような目をしていたのではないか」と思いつく。そしてレッスン後に向かった先が「お仏壇のはせがわ」。水中ではいざ知らず、陸上でのフットワークはおそろしくいい人なのである。
またあるときは、水中から水面を見ると、「鏡のような膜が不気味に揺れているだけ」で、「水中に閉じ込められたような」恐怖を感じた。「行動する理論派」(あっ、私の表現も「進化」してしまっている)であるヒデミネさんは、「潜水艦に乗り地球上の水を下からくまなく見てきた男」という理由で、深海生物学の第一人者の大学助教授に教えを請いに行く。……明らかに行動し過ぎである。
こんな調子なので、この本を読めば泳げるようになるかと問われれば、「まあ、そういうのは水ものだね」としか答えようがない(でも、私が数年前に突然「泳げる人」になったとき、「ああ、こういうことだったのね~」と一人納得した方法も、コーチの「進化」の一つとして紹介されているのだよ、これが)。だが、「泳げない人」「泳げる人」、どっち側の人でも、とにかく大笑いできることは間違いなし! ということで、爆笑本好きのあなた。この夏は『はい、泳げません』に溺れましょう!