数年前、親の郷里を訪ねて愕然としたことがある。町の佇まいはさほど変わっていないのだが、あらゆる景観が小さく静かに映ってしまうのだ。踏切、時計台、湖上の遊覧船など、かつて子供の目には大きく立派に見えたものが、安っぽいミニチュアのように変化している。それが歳月というものだろうか。
そんな僅かな痛みを思い起こしながら、森絵都の青春小説『永遠の出口』を読んだ。自分の町から少し離れる電車に乗るだけで遠い旅をする気持ちになったり、週末のデパートに行くだけでドキドキしたり、夏の日差しがずっと降り注ぐように感じられたり…、思えば子供の頃は、誰もがそんな気持ちを抱いていたのではないだろうか。紀子という千葉に住む女の子の小学三年から高校卒業までを追いかけたこの小説は、読む者をそうした日々に連れ戻し、大人になった今でも、柔らかい記憶の断片が十代の頃にあることを改めて問いかけてくる成長物語だ。
ここでは少女だからこそ敏感に感じる貧富と家庭環境の差や、如才ない優等生や意地悪な教師そして規範的な親への反発が描かれ、すっかりグレてしまい不良仲間と無断外泊や万引きを繰り返す中学生の日々や、何とか進学した高校での恋愛やアルバイト先での顛末が、リズムとユーモアを伴ってまっすぐに語られていく。
ちなみに時代設定は、サンリオのグッズ、たのきんトリオ、山下達郎の「クリスマス・イブ」といった小道具が使われていることから想像してみてほしい。
掲げられたテーマ自体に目新しさはないし、不良化した主人公が絵を描くという“好きなこと”を発見することで自分を取り戻していく、という展開もありきたりかもしれない。しかし本書が共感を呼び寄せるのは、そうした筋立てにあるのではなく、十代という日々がいかに波乱万丈で理不尽なものなのか、またどんなに傷つきやすく脆いものなのかを濃密に再現している点にこそある。たとえばアイス・キャンディーのアタリ棒について、中学一年の紀子は男子の悪友と次のような会話を交わす。「俺もいつかアイス当たってももらいに行かなくなるのかなー」「高校生になっても、大学生になっても、アタリが出たらもう一本なんだから。いつまでもいつまでももらいに行けばいいじゃん」「でもさ、今はそんなこと言ってても、ほんとにシワシワジジイになったらアタリが出てもぽいって捨てるんだよね」。
五十億年後には地球が太陽に呑み込まれてしまう。ある日天文部の顧問からそんなどうしようもない事実を知らされ、心を震わせる高校卒業間近の主人公の姿にも感動する。そんな風にして生と死を結び付けること。
そうした大きな運命のなかで人との関わりを想像してみること。果たして今の自分にそんな余地が残っているだろうか? 『永遠の出口』は、そんなことさえ正面から問いかけてくるのである。堂々と一人称で、目に映るものも、映らないものさえも。