CGを導入したり、口パクが判明したりと、いくつもの疑問が投げかけられた北京オリンピック開会式だが、「テレビの画面越しに眺めるスペクタクル」としては、圧倒的な完成度だったのではないか。実像と虚像が入り混じった映像は、なるほど、映画監督である張芸謀(チャン・イーモウ)ならではの演出だったと思う。
個人的にもっとも面白く感じたのが、中華文明の歴史を辿るパートで、活版印刷が取り上げられたこと。活版は、後にグーテンベルクが体系化することで、西欧文化の根底を規定することにもなる。いわば「書き言葉」の誕生を促した技術だ。しかしながら、その輝かしい起源は、東洋文明の中心たる古代中国にあった――中国人民の群舞は、そのようなマニフェストにも見えた。
ところで「活字中毒」なる呼称をよく耳にする。これはおそらく、椎名誠『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』(角川文庫)あたりから派生したものだろう。実際、椎名が編集に関わった「本の雑誌」は、長年に渡り、活版印刷で刷られていた。
刷られていた――そう、過去形だ。
現在、書店に並ぶ書籍で、活版で印刷されたものは、ほぼ皆無といっていい。なぜなら、我々が手にする新刊のほとんどは、コンピュータを導入したDTPによって制作されているからだ。産業としての活版印刷は、残念ながら、すでに息絶えてしまった。小規模の工房が、細々と活動してはいるものの、正直なところ、見通しは暗い(ただし、その一方で、活版を文化として、あるいは、デザインの要素として見直す動きもある)。
だから「活字中毒」や「活字文化」と言うときの“活字”とは、あくまでも「文字」や「読書」といった意味合いしか持っていない。逆に言うと、これは活字なるもののイメージが、一定の強度を保ち続けているようにも思えるのだ。写植でもなく、フォントでもなく、それを“活字”と呼ぶことで獲得される何か。その秘密の一端を解き明かしてくれるのが、本書『文字の母たち』である。
著者である港千尋は、写真家であり、批評家でもある。写真家としての瞬発力と、批評家としての持続力。港の思索において、このふたつは密接不可分なものであり、撮ることと思考することによって、文化史を再構築しようという姿勢は、他に類を見ない。
『文字の母たち』のテーマは「活版の記憶」。グーテンベルク以降、西欧の活版印刷の正統を自負するフランス国立印刷所と、日本における活字文化の精髄である秀英体(明朝体)を管理する大日本印刷。両者が保管する活字、および活版印刷の現場を、港は巧みに写し取っていく。いまや、どちらも歴史に属する空間となってしまったが、にもかかわらず、不思議な今日性を携えている。これは写真家のまなざしの賜物だろう。
活版では、一文字ずつ活字を拾い、それを組み、一行ずつ文章を形作っていく。欧文(アルファベット)と和文(漢字、ひらがな、カタカナ……)という違いはあるものの、プロセス自体は変わらない。なお、活版の原理を含め、本がどのように制作されているのかについては、岩波書店編集部編『本ができるまで』(岩波ジュニア新書)に目を通していただきたい。平易な記述ゆえ、非常にわかりやすい。
そのうえで、改めて『文字の母たち』の写真や、その傍らに添えられた随想(エセー)に触れてほしい。一見すると、本書は地味な写真集に見えるが、そこには本と印刷をめぐる文明論が潜んでいる。興味深いのは、その思索が、何百年もの間、本を下支えしてきた下部構造、つまり活版印刷というシステムから汲み上げられているところだ。活字や印刷という、知っているようで、その実、ほとんど知られていない世界。そこに秘められた文化の水脈と、それらの交錯は、スリリングな読書体験をもたらしてくれるだろう。
ちなみに、本書では、アテネオリンピックでクロード・ガラモンが彫った「王のギリシア文字」が使われたというエピソードが紹介されている。クロード・ガラモンとは何者か? 「王のギリシア文字」とは何か? もちろん、その答えは本書が教えてくれる。