『隠れたる日本霊性史』と題する本書の恩恵は、日頃から遠い存在だと思われる「能」と言う世界が、非常に多くの分野に亘って日本人の精神性の底流を占めている事に気付かされる事ではないだろうか。この謡曲が発するところの、中世に咲いた古代の花々に包まれた幽玄の美の迷宮から漏れてくる雰囲気に浸ってみると、日本史の別の側面である精神史が見えてくるに違いない。
歌舞音曲は、しばしば差別の対象となり疎ましいものとして退けられてきた歴史がある。歌舞や歌舞伎の語源がカブク(傾き)であり、君主が色香に迷って国が傾く様な絶世の美女を傾城などと呼んで一種蔑んだ使い方をする。ところが歌舞音曲は、実際は世阿弥が『風姿花伝』の冒頭で指摘しているように、古代起源の神事から来る天下安全・諸人快楽のための国家安穏の祈りだったのである。
従って世阿弥の『風姿花伝』は、古代から受け継いだ歌舞音曲の正統性の復権を主張したものであり、その意味では芸術宣言であると同時に政治=宗教宣言でもあったと著者は考えている。敢えて言うなら、猿楽から「能」への完成度を高みに導いた演者であった世阿弥と金春禅竹は、同時に中世霊性運動の唱導者だったのである。
世阿弥の時代に花開いた「能」は古来、聖徳太子が自ら彫った面と共に秦河勝に命じて天下安全と諸人快楽を祈願して六十六番の曲を作り、これを申楽と名付けた。
世阿弥によれば、今日の能楽流派である金春・宝生・観世はみな秦河勝の子孫であり宮中や法隆寺や春日大社の音曲を担当する伶人も同様と言う事になる。
この観世流の成り立ちについて、観阿弥の息子の世阿弥が述べている『世子六十以後申楽談儀』では、血筋では観阿弥の曾祖父にあたる「杉の木」という人が伊賀の服部家の生まれであり、後に伊賀忍者の統領で有名な服部半蔵の出た服部氏と同系である事が判る。また著者の調べでは、伊賀上野の旧家の『上嶋家本家文書』の「観世系図」伝承によれば、観阿弥は伊賀杉の木に住す服部信清の三男で、母は河内国玉櫛庄橘入道正遠の娘、つまり南朝の武将楠木正成の姉か妹であるかもしれないと言う。実に興味深い事だが、言い換えれば観阿弥の父方は伊賀忍者につながり、母方は南朝方の悲劇の英雄となった家系で、その子世阿弥は楠木正成の甥と言う事になる。因みに観世流が名声を得るきっかけになったのは、応安七年(1374)に将軍足利義満が今熊野の新熊野神社境内で初めて「能」を見て、当時、観世藤若と名乗っていた世阿弥の美童ぶりに惚れ込んで、以来贔屓にした事にある。時に世阿弥十三歳、観阿弥四十二歳、足利将軍鹿苑院は十八歳だった、と書いている。
世阿弥は父の観阿弥と同じく「阿弥号」を持っている。観世父子だけではなく、世阿弥の好敵手である犬王は道阿弥を名乗ったし、四代目観世三郎元重は音阿弥という「阿弥号」を持っていた。因みにこの「阿弥号」とは、本来は一遍上人の時宗の同朋衆であることの証として名前の下に「阿弥陀仏」をつけた事に由来する。したがって本来、「阿弥号」をもつ同朋衆はある種の法体=僧体であったが、時代と共にこの半ば僧であり、半ば俗であるような同朋衆が、将軍や有力武家たちの間で文化的・経済的な実権を持つまでになり、能楽以外にも茶道・立花・築庭・刀剣鑑定など異能の人々の文化アドバイザー的な役割における、スペシャリストの称号となっていると分析している。面白いのは、この築庭師が後の時代の「御庭番」として確立してゆき、将軍直轄組織として忍者統領である服部半蔵の登場へとつながってゆく事だ。
また、金春・宝生・観世の能座が発生した地域は、同時に七世紀の役小角(えんのおづの 他の読みもある)に発する修験道発祥の故郷でもある。この地域性の意味するところが何であるかが、本書によって次第に明らかになる。修験道は古代山岳信仰に仏教や道教(陰陽道)の要素が加わったもので、古来から発する日本列島固有の宗教性と霊性を伝えている。さらに修験者は探鉱技師であり薬剤師であり、方位学・地理学の師でもあった。また、土木・建築・木工・金工の技術者であり、山岳という自然からもたらされるあらゆる知識に習熟するナチュラリストの集団であったと言う事ができる。このように「能」座の出自にはこうした風土性もかぶってくる。