美術、そしてメディアに現れる「消防士」のヴィジュアル・イメージの変遷を、最初に「消防士」にあたる職業の成立した前近代から、「9.11」以後に至るまで辿ってゆくユニークな美術書です。英米の絵画、彫刻を中心に、版画、写真、映画、ポスター、イラストレーション、絵本、コミックブックに至るまで、ヴァラエティに富んだカラー図版が全編を彩り、さまざまに異なる視点から読んで、楽しむことができる一冊です。
たとえば、消防士の服装や装備、消防車のデザインが、歴史的に、あるいは国や地域によってどのように変化してきたかを目で辿ってみることは、消防士・消防車ファンにとってはなかなか愉しい体験です。あるいは最初期の「映画によって物語を語る試み」として名高いイングランド・ブライトン派の『火事だ!』(1903年)と、E.S.ポーターの『アメリカ消防士の生活』(1903年)から、ブルーの瞳がまぶしい『タワーリング・インフェルノ』(1974年)のスティーブン・マックイーン、ファリックな斧を握りしめて立つ『バックドラフト』(1991年)のカート・ラッセルに至る映画関連の図版を眺めつつ、「消防士の映画史」を脳裏に描いてみる、という楽しみ方なども可能です。
20世紀以降の大衆消費文化において、「消防士と消防車」は非常に人気のあるモチーフであり、とくに絵本や玩具などのこども向けのメディアには欠くことのできない花形であることは言うまでもありません。
とはいえ、「アート」と「消防士」の間にいったい何の関係があるのか、そんな疑問がまず浮かぶかもしれません。しかし、本書の最も興味深い点のひとつは、両者の間にある意外に深い絆を明らかにしてくれることにあります。
本書の解説によれば、19世紀の消防車や消防器具にしばしば施されていた華麗な装飾や、各消防署に掲げられる消防隊長の肖像画、殉職者のための記念碑や彫像など、今日に至るまで、消防士たちのコミュニティには「アート」に対する固有の需要が存在しており、それを満たすことをもっぱら専門とする「アーティスト」たちもまた存在してきました。さらに、元消防士あるいは兼業消防士などのバックグラウンドをもつアーティストも少なくなく、その中には、たとえば画業の傍ら、消防器具の設計に携わり、最古の消防マニュアルのひとつの執筆もしたオランダの風景画家ヤン・ファン・デル・ハイデン、あるいは浮世絵画家に転身する以前は、代々の家業を継いで町火消しとして働いていた安藤広重といった有名画家も混じっています。
また、19世紀フランスの官展派の歴史画家たちが被った「ポンピエ」の悪名は、彼らが好んで画題とした古代ギリシア・ローマ風の鎧兜をまとった人物たちが、「消防士(pompier)のヘルメットをかぶっている」と揶揄されたことに由来しています。さらに、そうした「ポンピエ」派のアカデミックな歴史画に、「写実主義(レアリスム)」という反旗を翻したフランスのギュスターヴ・クールベと、やはりアカデミズム絵画への対抗運動として立ち上げられた英国ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイによって、西洋絵画史における「消防士」を主題とする代表的な作品が描かれています。クールベ『消防士たちの出発』と、ミレイ『救出』の図版と解説を左右に配した見開きページ(44-45ページ)を眺めるにつけても、大都市の社会生活、炎と煙のスペクタクル、そして制服をまとい、近代的な装備を駆使して、公共のサービスに携わる匿名の英雄たちなどのイメージを、一枚の画面にまとめあげることで、「アート」と、「公共」と「大衆」との新しい接点を探求せんとする画家たちの創作意欲がひしひしと伝わってきます。そして、クールベ、ミレイの時代には、来るべき近代絵画の新しく重要なモチーフとして見出されていた「消防士」が、20世紀以降のモダン・アートのメインストリームにおいては、ほとんど取り上げられなくなってゆくという本書の指摘は、現在に至るまで深刻な問題として継続している、ハイ・アートと「公衆」との乖離という状況を鑑みるならば、いかにも徴候的なものではないでしょうか。
あるいは、いったん「美術史」を離れ、19-20世紀を中心とする「消防」および「消防士」の歴史を概観する資料として本書を読むことも可能です。第二次世界大戦期の米国で作られた、消防・防災サービス部門への女性の参加を呼びかけるポスター(128ページ)、1963年アラバマ州での公民権運動のデモ参加者たちに向けてホースで放水する消防士たちの報道写真(154ページ)、オクラホマ・シティの連邦ビル爆破テロ事件で、瀕死の重傷を負った乳児を抱きあげる消防士の写真(165ページ)、そしていまだ記憶に生々しい「9.11」で、自分自身の身命の安全をかえりみることなく、テロの犠牲者たちの救助にあたる消防士たちの英雄的なイメージ……。これらの画像と解説文を辿ってゆくと、「消防士」という職業のもつ社会的な意味及びイメージが経てきた歴史的変遷のダイナミズムが、文字テキストを読むのとはまた異なる臨場感をもって伝わってきます。
少々残念なのは、取り上げられる作品が、欧米、とくに英米のものに偏っている点です。かろうじて1枚、纏を持つ町火消しを描いた月岡芳年の浮世絵『煙中月』(75ページ)が取り上げられているものの、「火事と喧嘩は江戸の華」であり、粋な江戸の町火消しの姿は、浮世絵の好んだ画題の1つであったことを思えば、これではいかにも物足りない感があります。それに、他のアジア、あるいはアフリカの諸地域の「消防士」に関連する絵画・彫刻・工芸作品などもぜひまとめて見てみたい――、と、無いものねだりが募るのは、結局、「消防士」と「アート」という本書のコンセプトが、きわめて魅力的なものであるからにほかなりません。
ちなみに、先に紹介した、「消防士」を画題とする西洋絵画の代表作の1つであるミレイの『救出』は、現在、渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムで開催中の「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」(2008年8月30日~10月26日)にて、実物の展示を見ることができます。またとない機会ですから、ぜひ併せてお出かけを。