けだし、料理とは物語であり、音楽である。「じゃがいも中2個」「しょうゆ50cc」「砂糖20グラム」といったレシピは、いわば個々の文字や音符だ。そのままでは誰の心にも響いていかない。肉じゃがを作るのに必要なのは、文字を文章に編み上げ、音符を楽譜の上に遊ばせるのと同じように、無味乾燥なレシピに「時間軸」を与えることだ。時間の流れを考えない料理など、ありえない。
時間は誰にも平等に存在する。だが、そのあしらいには上手、下手がある。時間軸を巧みに操れる人の中から作家が生まれ、音楽家が輩出する。そしてまた料理をよくする包丁名人も現れる。檀さんが優れていたのは、料理の流れを、文章の流れに重ね合わせたことだ。
サンケイ新聞(当時)に連載された『檀流クッキング』が単行本化されたのが1970年、文庫化されたのは1975年と、すでに40年近くが経過しているというのに、今なお愛されている理由はそこにある、と私は信じている。
少し脱線するけれども、およそ何かを学ぶときには、それが生きて動いている状態を見聞きしなければいけないのではないか、と私は最近感じている。命とは何かを知りたくて、跳ねている魚を殺して、どんどん小さく切り刻んで行っても、何も分からない。
全体から切り離された瞬間、部分は命を失う。部分だけを見て、全体は分からない。しかし、私たちは長らく、物事を学ぶときに部分だけを見つめることを習わしにしてきた。別の言葉で言えば「マニュアル化」ということである。
「食の安全」が重視される今、値段が高くても有機栽培のニンジンを選ぶ人が増えている。当然のことだろう。農家と契約して「顔の見える野菜」を求めるのも必要な取り組みに違いない。だが、それだけを「食べること」という全体から切り離してしまっては、一つの賢げなマニュアルに過ぎなくなる。
今では「モツ鍋」もすっかり日本人におなじみになってしまったが、40年近く前は、実は家庭で韓国風の焼き肉(つまり今ある普通の焼き肉)をするのは非常に珍しかった。
そんな中にあって、「檀流」では努めてレバーやハツやタンといった臓物のおいしさを宣伝している。「レバーとニラいため」の項にこうある。
〈日本人は、清楚で、清潔な料理をつくることに一生懸命なあまり、随分と、大切でおいしい部分を棄ててしまうムダな食べ方に、なれ過ぎた〉
檀さんはこの本で、牛でも豚でも魚でも、「全貌を食べる」ことの大切さを何回も述べている。それは、食べ物が「命」であることを往々にして忘れる私たちへの警句だろう。料理とは、時間の流れの中で食材が秘めた力を引き出し、生かすことだ。そのことによって、私たちは一個のじゃがいもに、命があったことを実感するのである。