ああ、西村賢太だなあ、と思う。ストリーテリングに重きを置く作家なら、長編作家なら、エンタメ系の作家なら、直木賞系の作家なら、ここは「胸を張って言える話ではないが、私はこれまで女性から、ほとんど好意や愛情といったものをもたれたためしがなかった」と書くはずである。微細なようでこの差異は決定的だ。「余り、と云うか」の部分、これは何ごとだろうか? もともと胸を張って言える話ではないに決まっているのに、その上「殊更に」とはなんだ。おまけに「云う」「殆ど」なんていちいち今日の規格から外れた漢字を当てている。これはなにか?
文体、と言い放ってしまえばそれまでなのだけれども、西村賢太という作家はデビュー時からすでに、その独特の、行きつ戻りつするようなうねりの文章が魅力で、それは音楽のようなものになり得ている。しかも自らその音楽に酔うということがなく、清潔なのだ。だから読みやすい。
悲惨なのに笑ってしまう。無頼めいた言辞を弄するかと思うと、いつのまにか小市民的な幸福に満足している。だがその幸福は長く続かず、ああ、来るな、もうすぐ殴るな、お約束の暴力が来るなと思っているとホラ、逆ギレが始まった……。
西村賢太の小説世界を動詞で規定してみれば、つまるところ「借りる」「殴る」「謝る」の3つに集約されると思う。いつもそうなのである。いってみればローテーション小説だ。それが毎回、きまって面白いというのは…… うーん。ほとんど吉本新喜劇並みの安心感というか、高打率なのである。
最新作『小銭をかぞえる』の二篇は、いつにもまして特に会話部分の鮮度が高い。一緒に暮らす男女の罵り合いであれ、束の間の睦言であれ、いじましい甘言であれ、それらはおなじみの思考回路が紡ぎ出す、同じところをいつまでもグルグルと堂々巡りをしている、ほぼ不毛な言葉たちに過ぎないのだけれど、読み進むにつれて様々に口調や語尾、ボキャブラリーがまさに音楽的に変奏されていく。そこに現れるのは、人の営みのいじらしさ、のような感触だ。西村賢太は本当に、会話のさりげない書き込みが上手い作家である。
これまでの3作もそうだけれども、今作ではさらに、文章の姿かたちが、スッキリとしつつメリハリが効いている。最初の『どうで死ぬ身の一踊り』などに比べると全体に淡白であり、であるがゆえに、現在の日常世界、小説の世界から駆逐された昔の言い回しや表記が文中に凹凸感を与えて強い印象を残し、しかもくどさがない。これはほとんど、「洗練」と言っていいのではないか。その「洗練」に名人芸めいた厭味がないのは、これはなんといってもそこに表れる世界の目線の低さ、ダメさ加減のなせる技だろう。
例を挙げれば、表題作「小銭をかぞえる」では、「お前さん」の「前」には「まい」、「明日」は「みょうにち」とルビが振られ、「瞬間駭魄(がいはく)した表情になり」とか、「デパートで奢汰(しゃた)な焼ソバなんか食べてる場合じゃない」とか、「てめえみたいな姦黠(かんかつ)な奴と飯食う気は、もうなくなったぞ」とか、近代文学がヌッと顔を出す瞬間があって、このどこか口上、もしくは舞台めいた表現が、すさんだ状況にユーモアを与えることに成功していると思う。
圧巻は「慊い」という言葉で、これ、読めないでしょう? 「あきたりない」と読ませるのですって。阿部和重の短編でコミックにもなった「鏖(みなごろし)」というのがあったけれど、あれ以来の衝撃かなあ。
泣けないし、カタルシスは得られないし、陰惨といえば陰惨だけれど、なんというかこの人の小説を読むと、「ま、この先、自分もなんとかやっていけるかな」なんて思えたりする。少しだけなにかが、ラクになる気がする。月並みすぎる言い方だけれど、一生懸命に生きてる人たちの小説なんだ、と気がついてしまう。
とても丁寧に書かれた小説だと思います。一度、読んでみてください。