私は、松本清張の熱心な読者ではない。世に言う、社会派推理小説というのをあまり楽しいと思わなかったからだ。特に若い頃にはそうだった。そのせいもあって、清張の代表作とされる作品を読破しているとはいえない。ただ、時折、この人はどれを読んでも「間違いない人だよな」と思いながら、読んでいないはずの文庫を手にすることがある。
これもそうして読んだ一冊で、「芸譚」というのが気に入って買ってしまった。このレビューに取り上げる目的で本を買うことはなく、買って読んで面白い場合のみその本を語ることにしている私。
新潮文庫の《復刊》シリーズという中、2008年4月刊行の一冊。奥付を見ると、35刷改版だ。ヒェー、これぐらい売れる本を書けたらなぁ。
さてと。
書店でこの本を手にとって、『芸譚』ときたか、と思いながら目次を見ると「運慶、世阿弥、千利休、雪舟、古田織部、岩佐又兵衛、小堀遠州、光悦、写楽、止利仏師」と、豪華メンバーが並んでいる。岩佐又兵衛を知らなかった。あとはまぁ、あんなことをした人と、だいたいは思い浮かぶ。このメンバー、この人数で本文300ページに満たない本である。サラサラと読むには最適だな、という次第で購入。
運慶を読み始めて、松本清張が歴史に名を残す人物たちを「小説にする」というのはこういうことかと、合点がいった。仏師としてそれまでにないスタイルを創り上げ、世に迎えられというか時の権力者に気に入られて名刹の仏像を託されるようになった運慶。そうして自分の時代を謳歌してきたが、今、すっかり老いた運慶の視界の中で、快慶がのびのび仕事をしているし、若い人が自分の作風ではない仏像を彫っては喜ばれている。
かつて、自分たち一派で「追い落とした古い仏師たち」がいたけれど、今また、私自身が抜かれていく、ということを心の中で深く感じている運慶。
優れた、新しい様式の仏像を彫ったにしても、それを認め、採用し、もっと作って欲しいと望まれない限り世に出ることなくして終わる仏師。
迎えてくれる人たち自身、時代の潮流の中にあり、その流れを受けた好みがあり、階層によっての趣味嗜好もある。仏師からすればそれに合致しなければ、一世を風靡できないが、合致することばかり意識していると「己の芸術」ではなくなる。といって、自分の作風を強調しすぎると敬遠される。
といった塩梅で、芸術表現をしたい人間、時の権力者のありよう、時代を担う者の擡頭、新しい創作もやがて時代においていかれる、という含みの多い「芸譚」。
すべてがそういうスタイルではないが、それぞれに創作者の悲哀があり、時代の波、時代の好みに沿い続けることはかなわないといったあたりで、名を残した人が悩み、思いに沈むという塩梅。
千利休が、なぜ秀吉に切腹を命じられたかということは、時代物好きには「ちょっと探求してみたいネタ」で、さぁ、松本清張はどういう理由にしているのか、という興味を持って読んだ。
どう解釈しているかは、もちろんここには書きませんが、なるほどね、そういう解釈かと面白かった。そこが小説のいいところ。松本清張が「秀吉と千利休」について研究していたかどうかは知らないが、この短編の中での解釈は納得させるところがある。私も、この件については調べてみたいと思っているのだが、さて、時間を作ることができるだろうか。
徹底して「侘び茶」に進む利休と、派手好みの秀吉が茶の湯で深い絆を創り上げたことが私には不思議だったが、そのあたり松本清張が踏み込んでいるのが楽しかった。
また、千利休、古田織部、小堀遠州という茶道の流れの中で、それぞれが師匠に学びつつ「そうじゃないだろ」と感じていた部分があることにして、師亡き後には、自分の茶の世界を作り、前代を否定していくありようを読ませてくれて、ははぁそうくるわけか、と妙に説得力があった。前のまま、では「私の世界」がない。といって全面否定ということもかなわない。どこに自分の表現を見出すか? 悩みと世間に受け入れられる加減を見計らう芸術家たち。
絵が下手な雪舟が中国に渡る機会を得て、行ってはみたもののそう思い通りの教えを受けることはできなかった。それでも、中国に渡ったということで箔が付くということを利用しようか、といったあたりもいい。
あとがきで、新潮社から『芸術新潮』に、小説の連載を乞われてこの連作を書くことになったという事情が披露されている。そういうことか。
写楽と止利仏師は、物足りない。読めばわかります。