テレビで「オアシズ」の大久保(佳代子)さんが出ていると、思わず注視してしまう。これって、もう立派なファンなのだろうか。しかし昔は過剰な自意識がマグマのようにあふれ出ていて、それがべったりと大久保さんを覆い尽くしているようで、見ているのがつらかった…というか、ごめんなさい、正直なんとなく不快感があった。
自意識過剰な毒のある女を演じているキャラがイヤというよりも、それが大久保さんの本性そのもののように思えてならなくて。毒舌だけど本当はいい奴、という芸能人の二重構造が、大久保さんの場合には見えてこない、というか・・・。
本書はそんな大久保さんと、売れっ子芸人・光浦(靖子)さんとの往復書簡集だ。「オアシズ」というのは光浦さんとのコンビ名だが、もうその事実を知らない人もいるのではないだろうか。それくらい光浦さん単独の出番が多い。
光浦さん、大久保さんもコンビと親友であった月日がもはや逆転しつつあり、「親友というのはもはや難しい」と双方が言い切る。友情なのか、小学校からの腐れ縁なのか、ビジネスなのか、変転する関係性は第三者には伺い知ることのできない世界だが、売れている相方をブラウン管で見続ける日々、そしてOLの二足のわらじを履き続ける大久保さん。
そんな二人のゆがんだ友情、容赦ないようで遠慮のある関係、労っているようで揚げ足を取るなど、プライドと自意識の狭間で揺れ、ぎりぎりのところで本音を語る書簡集には、あらゆることを笑いにしようとする痛みと笑いがある。
仕事場で妊婦を見てイラつく大久保さん、勤務状況の悪さを注意されてふてくされる大久保さん。OLと芸能人、住む世界が違うからそこに描かれる世界や状況も違うのに、彼女たちの感情は往復書簡の中で微妙なシンクロを見せている。
数ヶ月前、芸能人で誰が一番歌がうまいかを競う番組で、確か松田聖子の赤いスイトピーだったと記憶しているが、フリフリの衣装を着た大久保さんが、往年の名曲を情感たっぷりに歌い上げていた。ぶりっ子をデフォルメしたわざとらしいほどにクネクネと歌う様に、何か見てはいけないものを目撃してしまったような、居心地の悪さを感じさせた。
しかしびっくりしたのは大久保さんの歌の巧さだった。だけど歌い方が気持ち悪い。アンタは誰?と言いたくなるキャラで、大久保さん、何者かを演じすぎていた。
誰もがそう感じていたようで、審査員の清水ミチコから「嫉妬を抱くほど憎たらしい」と言われ、つんく♂からも「歌自体は安定性があるのに、嫌悪感を抱いてしまう」と、いっけん誉め言葉にも取れるが、酷評された。この大久保さんから噴き出す“不快感”は何だろう。私はそれが面白いと思うのだが、ぐつぐつに煮詰まった灰汁のようなものが、時折沸騰して吹きこぼれるような感じだ。
往復書簡といっても認知度の高い光浦さんが主役なのかもしれないが、大久保さんの文章力と観察力、意地の悪さが抜きん出ていた。テレビでは自意識過剰の痛い感じが、文章では自虐ネタと俯瞰ネタとのバランスが取れていて笑わせてくれる。よく見てるなぁ、意地悪く観察してるなぁ、比喩と例え話がうまいなぁと、味わい深い。
意外だったのは本書によると大久保さんは「とても人の目を気にする人」「人に嫌われたくない人」だという。ひとの目を気にするあまり、外では小食のフリをしてほとんど食べなかったり。いみじくも光浦さんが「大久保さん、誰を演じているんだろうと思うことがある」と書いていたが、生き辛い人だ。
二人の往復書簡集なのに、ちょっと大久保さんに肩入れが過ぎたかもしれないが、光浦さんの話はテレビでも聞いていること、知っていることだから許してください。
私がリアルタイムで知っているコンビ&片方売れっ子例としては、中山秀征と松野大介の「ABブラザーズ」があるが、松野は芸能界を引退し作家に転身、周知のように中山はピン芸人として活躍――芸を志した者がコンビで明暗をわけるというのは、どんな気分なのだろう・・・。
大久保さんは、自意識と対他意識のシーソーが極端に傾いてバランスが取れていないようで、それが視聴者からみて「見ていて痛い」という状況を生んでいたように思う(大久保さん、ごめんなさい)。光浦さんはその点、バランス感があった。だからこそブラウン管の向こうの視聴者に受け入れられたのではないかとも思う。
高層ビルの谷間のように深い大久保さんの煩悩。読んでいると、おっと危ない、一緒に落ちていきそうになるけれど、怨念を抱えて、それを食って、消化しきった大久保さんよりも、雑念を抱えた演技が私には魅力的なんだけれどな。
あまり多数派であったら困るものの、確実に世の中にいるであろう“プチ大久保さん”、働く30代独身女性のリアルすぎる生態に、痛くも笑える一冊。