伊坂幸太郎の最新作『モダンタイムス』は五百ページを超える大著であり、同じくらい長い『ゴールデンスランバー』(新潮社)とほぼ並行して執筆された。『ゴールデンスランバー』といえば、本屋大賞と山本周五郎賞を受賞し、既に傑作の呼び声が高い。その『ゴールデンスランバー』と双子の関係にある『モダンタイムス』には、注目が集まるはずだ。さらに、『モダンタイムス』は『魔王』(講談社文庫)の続編でもある。物語の舞台は『魔王』の約五十年後、すなわち二十一世紀半ばに設定され、登場人物も一部共通している。『魔王』は強い政治色で話題になったが、『モダンタイムス』がその問題作をどう引き継いでいるかも読みどころとなろう。
というわけでまずは粗筋紹介。
配信占いメールを生活の潤いにしている二十九歳のSE・渡辺拓海は、浮気をした結果、妻の佳代子に雇われた拷問者に付け回されている。そんな折、頼りになる会社の先輩・五反田正臣が前触れなく失踪してしまった。拓海は後輩の大石倉之助と一緒に、五反田がやり残した業務を引き継ぐが、そのプログラムには暗号が隠されていた。それを解いた拓海たちは、インターネットでのキーワード検索が何者かに監視されているのでは、という疑いを抱く。思いあぐねた拓海は、作家で友人の井坂好太郎に相談を持ちかける……。
個性豊かな登場人物たちが当意即妙の掛け合いを繰り広げる中で、次第に、各人の譲れないものが浮き彫りにされていく。会話の見せ方は相変わらずとてもうまく、とぼけたユーモアが横溢しており楽しく読めるが、人生の深淵を覗くような恐るべき科白もあって気が抜けない。物語の緩急自在な展開も特色であり、主人公たちは様々な難局を、思弁や口八丁、暴力、果ては超能力(!)まで持ち出して乗り切っていく。これらに加えてリーダビリティも高く、長さがまるで気にならないなど、伊坂はストーリーテリングの才を遺憾なく発揮しているのだ。
これだけでも十分面白いが、本書は『ゴールデンスランバー』や『魔王』と比較することで、より明快に作品の特徴を把握できる。
まず『ゴールデンスランバー』と比べると、『モダンタイムス』は、主人公たちが問題に正面から立ち向かっているのが特徴である。
『ゴールデンスランバー』と『モダンタイムス』での敵は、国家権力や社会構造そのものである。しかし『ゴールデンスランバー』の主人公は、雄々しく敵と戦ったわけではなく、終始逃げ回っていた。ヌエのように正体が掴めない国家権力とはとても戦えるもんじゃない、三十六計逃げるに如かず、というわけだ。そしてこの逃走劇を引き立てたのが、周到緻密な伏線の数々と、人々が主人公に寄せる善意であった。
一方、この敵と正面切って戦ったらどうなるかを描いたのが『モダンタイムス』である。主人公たちは果敢に国家や社会に挑む。おかしいことはおかしい、正しいことは正しいとハッキリ言うべく、反撃を試みるのである。特に終盤では反転大攻勢が仕掛けられ、物語は否が応にも盛り上がるのだ。しかし相手は国家や社会といったヌエ、一筋縄ではいかず、主人公たちは戦いに確たる手応えを感じ取ることすらできない。それが作品にシニカルな味わいをもたらし、作品の雰囲気を決定付けている。
『魔王』との対比もなかなかに興味深い。
『魔王』では、カリスマ的人気を誇る犬養首相が、主人公の目の敵にされていた。犬養首相は、刺激的な演説によって大衆から思考能力を奪っている、ゆえに「悪い奴」だ――かなり単純化して言えば、これが主人公の認識である。決め科白「考えろ考えろマグガイバー」で端的に示されるように、主人公は、自分で考えることを生きる上で最重要視していた。だからこの認識に至ったのであろう。しかし『魔王』は最後に、主人公にとって酷な現実を提示する。扇動する奴も悪いが、それ以前に、扇動される人々や社会にこそ根本的な問題があるということを、主人公と読者にはっきり突き付け、苦い後味を残したまま、話は終わってしまう。
一方、『モダンタイムス』では、犬養首相のような人物は一切出て来ない。主人公は「罪を憎んで人を憎まず」を実践し、個人に敵意を向けることはほとんどないのだ。代わりに社会そのものが深く考察される。つまり、『魔王』においては深く追究されなかった「根本的な問題」に、『モダンタイムス』は最初からどっぷり浸って肉薄するのである。『魔王』よりもテーマが深化している――私ならばそう言う。
もちろん、単純にストーリーテリングに酔うもよし、登場人物のカッコよさに痺れるもよしだが、同意できる/できないは別として、作者と作品が発したメッセージに真摯に耳を傾けるのも悪くないはずだ。『モダンタイムス』は、さまざまな読み方を許容する作品で、流して読んでも面白いし、深読みしても興味深い。旬の作家がものした、読書の秋を彩る逸品として、一読をおすすめする次第である。