一九五〇年代(ザ・フィフティーズ)。それは、デイヴィッド・ハルバースタムが名著『ザ・フィフティーズ』(新潮OH!文庫)に記したように、「アメリカの歴史のなかで、一片の曇りもなく未来が薔薇色に輝くとみえた時代、猫の目のように次々とスタイルを変えて消費を拡大させつづければ、より良き未来が訪れると確信していた時代」だった。派手で馬鹿でかいテールフィンのGMが疾駆し、郊外住宅地が次々と誕生、全土にホリデイインとマクドナルドとが展開していった時代だ。
と同時に冷戦の拡大期であり、第二次世界大戦後、焦土と化したヨーロッパに代わってアメリカが、資本主義/自由主義陣営の盟主として西側社会に君臨することになる時期でもある。五〇年代はまさに〈アメリカの世紀〉が始まった時期だった。
では一方、東側諸国にとってはどんな時代だったのか。仮にそう聞かれたとして、具体的に説明できる人は、ほとんどいないんじゃないだろうか。理由は簡単。馴染みがないからだ。我が国とは歴史的にも地理的にもつながりが薄く、情報も少ない。こんなことを言うと怒られるかも知れないけれど、旧共産圏の国々―とりわけ東欧諸国―は、心理的距離という点で多くの日本人にとって、いまだに月よりも遠い存在なのではなかろうか。これは他の旧西側諸国にとっても程度の差こそあれ、同じようなものらしく、その証拠にこれまで、かの地域を舞台とした娯楽小説は、ほとんど書かれてこなかった。
オレン・スタインハウアーの〈ヤルタ・ブールヴァード〉シリーズは、そんな未知の地域である東欧にスポットライトを当てた画期的な警察小説である。戦後、共産主義圏に組み込まれ、ソビエト連邦の監視と統制の元で生きざるを得なかった架空の国を舞台にした、全五作からなるこのシリーズの一番の特長は、戦後社会を東側からとらえ直している点だ。
冷戦とは一体何だったのか。東西の対立構造の中で、世界はどこに向かっていったのか。こう書くと、何やらお固く難解な現代政治史の教科書のようなイメージを与えかねないが、それは杞憂というものだ。本シリーズは、何よりもまず、個性的な刑事たちの活躍を描いた優れた警察小説なのだから。
この二つのテーマを両立させるために、作者は毎回、事件の背景として冷戦時代の里程標となる出来事を作品の背景に据えている。一九四八年を舞台とした第一作『嘆きの橋』(文春文庫)では、主人公である若き民警捜査官エミールが、事件解明のために封鎖された西ベルリンへと決死の潜入を計る。今回、シリーズ二作目となる『極限捜査』(文春文庫)で、作品全体を通じて低く太く響き渡るのは隣国ハンガリーでの動乱の跫音だ。
独裁者スターリンの死から三年、フルシチョフによるスターリン批判を受けて、東欧諸国がにわかにざわめき始めた一九五六年の夏。西隣の国ハンガリーで起きたデモの声が連日新聞を賑わす中、殺人課の刑事たちは、次々と起きる事件に忙殺されていた。零落しアルコールに溺れた元美術館長の変死事件、四肢を折られた上で焼き殺された国民画家、共産党役員の妻の失踪事件。立ちはだかる権力の壁、捜査を阻む国家の闇、そして崩壊寸前の結婚生活と内にも外にも問題を抱えつつも、執拗に捜査をつづける捜査官フェレンクは、刑事として一人の人間として、己の信じる生き方をすべく、重大な決意をすることに……。
前作が、二十二歳の新米捜査官エミールの成長を描いた三人称小説だったのに対して、今回は、円熟味と情動とを兼ね備えた三十七歳のベテラン捜査官フェレンクによる一人称を採用している。その結果、読者は、彼の懊悩や葛藤を通じて五〇年代半ばの共産主義体制下に生きざるを得なかった人間の、悩みや苦しみ、畏れ、そしてわずかながらの希望を、より深く共感できる。原題であるThe Confessionが示すように、この小説は人生における重大な決定を先送りにしたまま中年にさしかかった一人の男の「告白」録であり、再生譚でもあるのだ。
無論、ミステリとして優れていることは言うまでもない。練り込まれたプロット、錯綜する謎、意外な真相、そして読後深く心に残る結末。登場人物も皆、実に人間くさく魅力にあふれている。中でも、敵か味方か判然としない国家公安捜査官ブラーノ・セヴの造形が素晴らしい。彼の存在が、ただでさえ緊迫感あふれるこの世界に、ピンと一本、鋼鉄のワイヤーを張りつめたような緊張感を醸し出しているのだ。まさに、二〇〇八年度を代表するに相応しい傑作といえよう。
冷戦構造を再検証し現代史をとらえ直すという大テーマとともに、洋の東西にかかわらず絶えることのない犯罪の捜査を通じて、市井に生きる人々の欲望、さらには一人の人間としての刑事の懊悩といった普遍的で卑近なテーマにも取り組むオレン・スタインハウアー。一九四八年のベルリン封鎖に始まり、一九八九年のベルリンの壁崩壊に至る四十年余を描く〈ヤルタ・ブールヴァード〉シリーズは、六〇年代と九〇年代のスウェーデンの変遷を活写した〈マルティン・ベック〉、〈クルト・ヴァランダー〉のシリーズと並ぶ、視野の広く滋味深い警察小説として、広く長く読み継がれて欲しいものだ。