20世紀から今日に至るまで、「芸術」あるいは「報道」としての写真の辿ってきた歴史の紆余曲折を、多角的な視点から捉えながら、まことに明快に整理した写真論・写真史入門書。のみならず、「写真メディアを、芸術史的および社会的文脈の双方でクリティカルに分析し、評価できる力、延いてはその知識と倫理をもって、一方で歴史認識を精錬し、他方で現在における多様なコミュニケーションを創り出す力」、すなわち「フォト・リテラシー」(8ページ)を涵養するという野心的な目的を掲げた一冊です。
「写真」という「アート」、あるいは「メディア」もしくは「コモディティー」は、現在のわれわれにとっては、馴染み深くまた縁遠い対象であり、曖昧かつ多義的な存在となっているといえるでしょう。したがって、「芸術系ではない一般大学の一般講義で、キャパの『崩れ落ちる兵士』を初めて見たという学生が、実に七十パーセントにも上る」(185-186ページ)という本書の記述を目にしたとき、「若年層の教養の貧困化」に頭を抱える読者もあれば、逆に「三割もの学生が『崩れ落ちる兵士』を見ていたとは、さすがは東大……」と感嘆する読者もあるかもしれません。「ふーん、それって何か問題なの?」と首を傾げるという反応も十分予測できるでしょう。このように、「写真」をめぐる一定の了解や教養を共有することがそもそも困難であるという現状を鑑みるならば、本書の掲げる「フォト・リテラシー」という目的の野心と意義の大きさは、おのずと明らかです。
本書はまず、「『崩れ落ちる兵士』を知らない七割の大学生」にとっての、大変丁寧で目配りのきいた入門書として読むことができます。「写真」を見て、読み、語り、考えるにあたって、基本的な「教養」として知っておくべき事蹟と人と作品が、芸術史およびメディア史的な文脈を的確に押さえながら紹介されています。写真史上名高い作品が多数図版引用されている点も、初心者にとってはありがたいところです。たとえば、水たまりの上を飛ぶひとりの男と鏡のような水面に落ちるその影を絶妙な構図で捉えたアンリ・カルティエ=ブレッソンの「サン=ラザール駅裏」、「至る所で恋人たちがキスをしている街・パリ」の写真的記憶を世界中に流布した一枚としてあまりにも有名なロベール・ドアノー「パリ市庁舎前のキス」、“パリの秘密”にキャメラを向け続けたブラッサイの「椅子、チュイルリー公園」、オリヴィエーロ・トスカニーニのスキャンダラスで衝撃的なベネトン広告写真など、いずれも一目で見るものを惹きつけずにはおかない、美的、あるいはジャーナリスティックな衝迫力をもつ図版が厳選されています。
こうした入門書としての間口の広さ、見通しの良さに加えて、本書は、「『崩れ落ちる兵士』をすでに見たことがある三割の大学生」、さらには、そうした大学生たちに対し、悲憤慷慨したり感嘆したり無関心だったりといったさまざまな感慨を抱くであろう読者たちに対し、それぞれが「写真」について抱いている固定観念を揺るがし、新たな思考へと導くだけの議論の射程の深さを同時にそなえています。
たとえば、第一~二章では、「写真家という職業に新たな規範と尊厳をもたらした」とされるアンリ・カルティエ=ブレッソン(以下HCB)の業績について、簡にして要を得た説明がなされるばかりではなく、HCBの写真美学の代名詞ともなった名高い写真集のタイトル「決定的瞬間」とは、実は英語版のタイトルであり、オリジナルの仏語タイトルは「かすめ取られたイマージュ」(Images a la sauvette)であったという指摘を皮切りに、HCBの人と作品を取り巻いて凝り固まった「神話」や「思い込み」の数々が鮮やかに解体されてゆきます。このように、「写真」についての基礎的な「教養」となる情報知識を豊富に提供する一方で、「写真」についての固定的な通念を、きわめて具体的な実証の積み重ねを通じて覆してゆき、そのうえで、改めて写真を見て、読み、語るという行為にともなう自由と責任と倫理を引き受けることを読者に呼びかける。こうした周到な配慮に支えられたダイナミックな論理の展開が、本書を「入門書」「教科書」に予測される退屈さから限りなく遠ざけています。
以下、ロベール・ドアノーの「市庁舎前のキス」が、実際には俳優を使った「演出写真」であったという事実などを挙げつつ、ともすれば「〈現実〉をありのままに伝える」ものと信じられがちな写真における、「現実」「真実」の捉えがたさを論じる第四章。『ライフ』誌に掲載されたフォトエッセイ「スペインの村」をめぐる、写真家ユージン・スミス、雑誌編集部、そして独裁下のスペインとアメリカ合衆国の政治権力のせめぎあいを簡明に描写しつつ、「報道写真」をめぐる「芸術」と「ジャーナリズム」、そして「政治」の容易には解きほぐしがたい交錯を問う第五章。
いずれも「真実の報道」と「芸術家の創意による作品」の単純な二元論にとどまることなく、その生産・流通・消費にかかわる個人個人の意図をなかば越えて、複雑に絡みあう文化的・社会的・政治的諸力に引き裂かれつづけている「写真」のありようを、具体的な事実の指摘に即して多角的に浮かびあがらせてゆく、説得力ある叙述が続きます。また、優れた写真家たちが「作り手」としての尊厳と自由を託すべく、さまざまな戦略をめぐらして創りあげてきた「写真集」という媒体の魅惑に満ちた多様な拡がりへと読者をいざなう第六章をはじめ、選別と手仕事という職人的な作業を通じて形づくられる具体的な「モノ」としての写真についても、充実した記述がなされています。
そして、第七~九章には、「異文化」を被写体とする写真を撮る/見る際のオリエンタリズムの作動、もしくは被写体の間の差異を平らにして均質的な集団にまとめあげてしまう抽象化・普遍化の問題、そしてナチス=ドイツの絶滅収容所から命がけで「もぎとられた」写真資料をめぐる「表象不可能性」に関する議論など、現在の世界において写真を撮ること、見ること、語ることの「倫理」をめぐる重要な論点が凝縮されています。第八章の「写真は世界を救うか」という問いかけ、第九章の「加害者と被害者しか存在しない場―究極の暴力が炸裂する場―において、写真は何らかの《証言》をなしうるか。そして写真を見る者はその《証言》を認識しうるか」という問いかけは、容易には回答することも、あるいは無視して通り過ぎることもかなわない重いものです。ここに至り、本書の目的とする「リテラシー」が、たんなる情報知識や教養の獲得を意味するのみならず、写真を通じて「倫理」へ到達するための手だてでなければならないことが明らかになります。
本書の結部において読者に呼びかけられるのは、「他者の受苦の写真」「究極の暴力の現場で撮影された写真」に対して、ニヒリズムや思考停止への誘惑を排してまっすぐに視線を向け、思考をめぐらせつづけるという、シンプルかつ困難な「倫理」の実践です。その真摯な呼びかけに対峙するとき、「序章」の結びにある以下の文章の厳しさと力強さが、改めて胸に迫ります。
「――せねばならない」と指し示す道徳とは異なり、「倫理」とは、あり得べき複数の可能性の中で思考を継続させる誠実さそのものだからである。(13-14ページ)