この間、ヴィルヘルム・ハンマースホイの画を見に上野に行った。二年前、『Reading Women』で初めて画を目にして以来、ずっと実物を見たいと思っていた画家の、念願の展覧会である。
20世紀初頭のデンマークで、静謐を通り越して幽玄ともいえるタッチで室内とそこに佇む妻を描き続けたハンマースホイ。この本に収録された「手紙を読む女と調度品」には、真っ白なドアをバックに、うつむいて手紙を読む女の姿が描かれている。同じ本の57ページにある、フェルメールの「手紙を読む女」を意識して描かれた作品であることは明らかだ。ただ、フェルメールの「手紙を読む女」が窓を向き、そこから差し込む光を受けているのに対し、ハンマースホイの「手紙を読む女」は窓のある方向に背を向けているように見える。ハンマースホイの画には、外から差し込む光の表現がないから定かではないが、手紙を読む女が顔を向けている画面の右側には、彼女の後ろに見えるものと寸分違わぬ白いドアがあり、それは開かれて別の部屋へと続くことが暗示されている。フェルメールの「手紙を読む女」が窓辺で、仕事で遠くにいる夫からの手紙を読んでいるのが見て取れるのに対し、ハンマースホイの描く女が誰の手紙を読んでいるかはまったく分からない。ただ、手紙によって外からの光明を受けるフェルメールの女に対し、ハンマースホイの「読む女」の心は佇んでいる食堂から更に奥の部屋、つまり自分の内部へと向かっている。
「読む女」は画家にとって魅力的な題材らしい。作品数も多く、同じテーマのものを集めた画集やカレンダーも時折見かける。『Reading Women』が面白いのは、ただ「読む女」たちのポートレートを集めるだけではなく、このような絵解きをして、女性にとって本や手紙を読むことの意味そのものに迫ろうとしているところだ。『ジェイン・オースティンの読書会』でまさに「読む女」たちについて書いた作家のカレン・ジョイス・ファウラーが序文を寄せている。彼女はそこで、画の中の女たちが手にしている、「本を読む女たち」が滅多に得られない、だからこそ貴重な、一種の勝利の瞬間について書いている。その「勝利の瞬間」とは、何なのだろう? 耽溺、誰にも知られぬ内面世界を持つこと、逃避、時間の自由、孤独、情報の収集、知識の追求、信仰、密やかな愛の交信。この本に収録された「読む女」たちの画や写真は、「本を読む」という小さなアクションが意味する、豊かで複雑で、静かな世界へと読者を導き、様々な「ささやかな勝利の瞬間」を見せてくれる。
本の一番最初に来るのは、14世紀のシエナ派の画家、シモーネ・マルティーニの「受胎告知」である。大天使ガブリエルから受胎を告げられるマリアは身をよじり、戸惑ったような表情を浮かべている。右手には読み差しの本があり、彼女の親指はガブリエルが降臨する寸前まで読んでいたであろうページに差し込まれている。そのため、ここに描かれているマリアは、読書を中断されて少し怒っているようにも見えるのだ。「Reading Women」の著者は、(音読が普通だった当時では珍しい)黙読によって自分の世界を持つ若い女性であるマリアと、その個人としての精神生活の終わりをこの画に見ている。
表紙を飾るグスタフ・アドルフ・ヘニングの画の少女は、胸の高さに本を持ち、手を組み合わせ、うつむいて目を伏せているところから、「祈りの書」を胸に抱いているのだということが分かる。エドワード・ホッパーの「ホテルルーム」で、ベッドに腰掛けて下着姿で女が読んでいるリーフレットは、恐らく何かの時刻表である。それは、彼女が一人で旅をする女性であることを物語っている。
「読む女」を好んで描いた英国の女性画家グウェン・ジョンの清楚な画。ラファエル前派の巨匠、エドワード・バーン=ジョーンズが描いた、ソファの上で読書に夢中になる少女。オーガスト・ザンダーが写真に記録した、20世紀初めの女性教師は教科書を手にしている。マティスが、ゴッホが、フラゴナールが描いた「読む女」たち。別に英文テキストを読まなくても、充分に美しく、楽しめる画集になっている。ただ、テキストを読めば何倍も楽しいことは請け合いだ。
本のラストを飾るのは、女性写真家イヴ・アーノルドが撮ったマリリン・モンローのポートレートである。白と黒のチェッカー柄のホールドネックのビキニ・トップからたわわな胸が今にもこぼれそうなマリリンが、豊かな太ももを合わせ、その膝の上に本を置いてうつむいて読んでいる。大変に魅力的な写真だが、このポートレイトは文学研究者の目を別の意味でひきつけた。彼女が膝の上に置いている本が、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』だったからである。
果たしてマリリンは本当に『ユリシーズ』を読んだのか、それとも撮影用の小道具に持たされただけなのか? 後に撮影者のアーノルドが語って判明した。あの『ユリシーズ』はマリリンの私物であり、実際に休み時間に彼女がその本を読んでいるところをスナップしたのがあの写真だそうだ。マリリンはこの小説の文体が気に入っていて、「声に出して読むと、理解力が深まる」と語っていたとか。セックス・シンボル、マリリン・モンローもまた「読む女」であった。ただ、それが「黙読」ではなく、周囲に自分の内部を開いて見せるかのような「音読」であったというところが、いかにもマリリンらしい。