先日の新聞でソニーは正社員を含む1万6000人の人員削減を発表していた(12月10日付け日経新聞朝刊)。自動車会社各社の非正規社員の大規模削減、日本IBMの1000人の正社員削減と、連日この調子だから、別段驚くに価しないことなのかもしれない。けれどこうしたニュースに接するたびにわたしは、もううんざりだ、もう充分だろう、という気分に陥ってしまう。バブル経済崩壊後の「失われた10年」のあいだ、われわれはあれほどまでに息を詰めて暮らし、やっと息を継いだ次の刹那にはこうして奈落へと突き落とされていくわけだ。この十数年のあいだに日本が生み出したものとはいったいなんだったのか思い出そうと試みたけれど、頭に浮かぶのはただ「格差」と「貧困」の二文字だけである。
こうした状況下で、小林多喜二の『蟹工船・党生活者』(新潮文庫)が150万部を超える異例の大ベストセラーを記録しているという話を耳にするとき、日本がのっぴきならないところまで来てしまったことを深く思わざるを得ない。『蟹工船』は葉山嘉樹の『海に生くる人々』(新日本文庫など)と並ぶ、プロレタリア文学の名作であると一般に言われている。しかし、この小説は「プロレタリア」という冠を取り除いても充分に素晴らしい小説だとわたしは思っている。方言を生き生きと操った文体、シンプルな構成、そしてサスペンス、とそもそも小説としてよくできているのだ。
カムチャツカ沖で蟹を獲り、それを缶詰に加工する蟹工船を舞台に、様々な事情を抱えた出稼ぎ労働者が集まってくる。労働者たちは監獄にも似た北洋の船上で、過酷な労働を強いられ、懲罰という名のもとに、暴力と虐待によって、一人またひとりと倒れていく。はじめのうちはしかたがないと諦めていた者たちも、やがて人間的な待遇を求めて団結し、ストライキに踏み切るのだが、資本家たちは海軍に手を回し、ストライキの鎮圧を海軍にゆだねる。指導者達は検挙され、労働者を守ってくれると信じていた軍が資本家の側についたことで、目覚めた労働者たちは再び闘争に立ち上がる…。
この小説に共感した人たちの中には、少なからずワーキングプアやプレカリアートと呼ばれる者たちが含まれていたことは想像に難くない。小泉/竹中ラインによって押し進められた新自由主義政策は派遣労働者をはじめとした企業にとって都合のいい労働者を大量に生み出す結果となった。企業の思惑に翻弄され続けてきたこうしたワーキングプアやプレカリアートたちが、団結し、企業(資本家)と闘うという物語に快哉を叫んだのはむべなるかな、といった感じだった。それとこの小説が発表された年(1929年)、世界恐慌が起きているという不思議な符合も見落としてはならないだろう。世界恐慌が第二次大戦を胚胎させたように、未曾有の世界同時不況に突入してしまったいま、雑踏の中から軍靴の音を聴きわける鋭敏さがこれまで以上に求められているのではないだろうか。
このところの麻生政権のていたらくぶりを見るにつけ、総選挙もそう遠くないうちに行われるはずである。清き一票を投じるためにも、格差と貧困を生み出した元凶がいかなるものかについて、整理しておくことも悪いことではないだろう。その意味でも本書『排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異』は価値ある一冊である。
著者のジョック・ヤングは、こんにち(後期近代)の社会が、60年代までの安定的で同質的な「包摂型社会」から、変動に満ち、排除を推し進める「排除型社会」へと移行したと捉えて、その構造とメカニズムを分析し、われわれに辛抱強くして説明していく。
1960年代までの「近代」は、逸脱や犯罪を引き起こす原因を追求し更正させ、社会へとふたたび取り込んでいく包摂型の政策が重視されていたとヤングは言う。近代主義の台頭によって、国民の大多数に市民権が与えられ、法的・政治的な権利保障に加えて、雇用・収入・教育・健康・住居の社会的権利が保障されていく。こうして社会的平等が達成されていくに従い、国家はさらなる社会正義の実現に向けて、市民社会へと深く介入してゆき、法による支配を徹底させると同時に、福祉国家の実現を目指してゆくことになる。