アメリカの小説家であり戯曲化でもあったウィリアム・サローヤンの自伝的代表作『我が名はアラム』の中に、次のような一節がある。「サーカスが町へ来る時はいつでも(中略)僕たちはめちゃくちゃ興奮し、学校のことなど忘れてしまった」「サーカスはすべてであり、僕たちの知っているどんなこととも違っていた。サーカスには、冒険、旅行、危険、熟練、気品、ロマンス、喜劇、ピーナッツ、ポップコーン、チューインガム、ソーダ水があった」。
サーカスの魅力を余すことなく綴ったこの一節からは、同時に公演を心待ちにする少年の興奮がストレートに伝わってくる。無論、この作品が書かれた一九四〇年と今とでは、娯楽のみならず世界全体が大きく変わっており、サーカスはもはや少年にとってさえ“すべて”ではありえない。けれども、その魅力が消滅した訳ではない。その証拠に、今も<リングリング・ブラザーズ>や<ボリショイ>といったサーカス団が、世界各地で人々を魅了し続けている。
また、文学の世界でも連綿と傑作が書き継がれてきた。娯楽小説に限っても、チャールズ・G・フィニー『ラーオ博士のサーカス』、トム・リーミイ『沈黙の声』(ともに、ちくま文庫)、『何かが道をやってくる』(創元推理文庫)を始めとするレイ・ブラッドベリの諸作、さらにはロバート・マキャモン『少年時代』(ヴィレッジブックス)や<ダレン・シャン・シリーズ>(小学館ファンタジー文庫)等々。サーカスが放つ華やかさと垣間見られる怪しさは、物語を愛する者にとって懐かしくも新鮮な<味>なのだ。本書、『サーカス象に水を』(ランダムハウス講談社)もまた、そうした系譜に連なる傑作である。
時は、大恐慌まっただ中の一九三一年。ニューヨークの名門校で家業の獣医を継ぐべく大学生活を送っていたジェイコブは、卒業試験を間近に控えたある夏の日、突然の不幸に見舞われる。両親が自動車事故で死亡、しかも全財産を銀行に奪われてしまったのだ。目標を見失った彼は、試験の最中に教室を飛び出しあてもなく線路沿いを彷徨ううちに、たまたまやってきた列車に飛び乗ってしまう。だがそれは、ただの列車ではなかった。<地上最大のベンジーニ・ブラザーズ・サーカス>の遊撃艦隊(フライング・スクアドロン)だったのだ。
かくして列車移動サーカスに転がり込む羽目になったジェイコブは、獣医としての腕を買われて、それまで想像だにしなかった世界の一員として旅をすることになる。やがて、美しき曲馬師マーリーナと恋に落ちるが……。
華やかな表舞台と過酷で劣悪な舞台裏という二つの世界が表裏一体となった、非日常的集団であるサーカス。獣医という特異な立場――裏方ではあるが表の世界にも出入りできる一種の越境者――を得たジェイコブは、娯楽の王様であるサーカスの煌びやかな世界に魅せられるとともに、常に死と隣り合わせというショウ・ビジネス界の、残酷で非人道的な側面を身をもって実感する。そこは、まさに当時の社会の縮図であった。権力と搾取の具現そのものである団長、誇り高く博学なフリークスであるピエロ、感情の起伏が激しすぎる演技主任兼動物監督のオーガスト、その妻でありジェイコブが命がけで愛するマーリーナ、そしてなぜか芸のできない象のロージー。彼らとの出会いを通じて、恋と冒険の日々を過ごしたジェイコブは、世間知らずの青年から一人前の男へと成長していく。
このノスタルジックなストーリーだけでも十分に面白い。だが作者は、サーカスで激動の日々を過ごす青年ジェイコブの一夏の物語と並行して、七十年後の現代、老人ホームで死を待ちわび単調な日々を送るジェイコブの姿を描くことで、物語を何倍にも充実したものにしている。それは単に動と静の対比によるリズムの創出といった技法的な効果を狙ったものではない。老人による懐旧譚でもない。若さと老いを等しく描き、時の流れにより変化せざるを得ないものを示すことで、逆に、変わらないもの/時の浸食におかされないものを浮き彫りにしているのだ。それが何かは、敢えて記さない。読んで確かめてみて欲しい。ただ、サーカスというものの根源的な精神に通じるものとだけ言っておこう。
冒頭の緊縛したクライマックスシーン――開演直前に発生した動物の大脱走と、その混乱の最中に起きた殺人――から、爽やかでファンタジックな余韻が残るラストシーンまで、ページを繰る手がもどかしくも、一気に読み進めるのが惜しく、じっくりと読んで欲しい一冊。ミステリとしてもひねりが効いており、「この本の面白さをあらゆる読書家に届けたい!」、といった使命感にも似た情熱を持って語りたくなる、十年に一度巡り会えるかどうかの稀有な傑作だ。