もう一箇所、引用してみる。
「激しい雨が降りそそいで、地上のすべてをびしょぬれにする。雨水は樋を駆け下り、路上のゴミをイカダのように押し流す。ドナウ川の河畔では、大橋に灯ったまばらな明かりが宝石のようにきらめいている。その向こうに、仲間たちが定住させられた高層アパートが林立している。だが窓の明かりが灯っていない。また停電しているのだ。ゾリは、高層アパートの停電が復旧する瞬間を見たいと思う。八棟のアパートに明かりがいっせいに灯る瞬間が、それらの建物が美しく見える唯一の瞬間だからである。何年も前のことだが、人間の意識が感じとる真実の恐怖をつかみとれるのは詩だけだと、ストラーンスキーが語るのを聞いた。しかしその話を聞いた瞬間、そいつは眉唾だよとゾリは思った――だって点いたり消えたりする高層アパートの電気と同じで、詩なんてからっきし頼りにならないんだから」
社会主義の体制から見れば、あるいはある種の文化人から見ればゾリは紛れもなく詩人だったけれども、ゾリにとって「詩」とはあくまで後から叩き込まれたものである。ジプシーの歴史とともにあったものは「歌」。それはスコアに書き込むことも、本として定着させることも本来できないものなのだ。小説『ゾリ』においては、「歌」は常に移ろってゆくもの、別の言い方をしてみるならば、いつでも現在という時間しか持たないものが「歌」である。対して「詩」は、それが書かれた時点から未来に向かって、その普遍性を要求しようとするものとして把握されている。
また、上の2つの引用から、それぞれ「この問いかけの手強さにその場で気がついていた」と、「しかしその話を聞いた瞬間、そいつは眉唾だよとゾリは思った」の箇所に注目してみよう。ゾリの聡明さは、その都度、違和感によって正しくアンテナを立てているのである。にもかかわらずその後の人生でゾリは栄光の詩人として祭り上げられたり、ジプシー仲間から追放の憂き目にあったり、老人になってからでさえ、黄金時代の英雄のように扱われるという、いずれも意に染まない立場に置かれ続けている。ゾリはいつだって受け身なのだ。しかし、まさにこの「受け身」の態度こそが東西ヨーロッパの歴史の荒波を正しくトレースし、翻弄される人生のニュートラル・ポジションになる。おそらくこの時代のジプシーたちは、ゾリが「個人」であったような意味では「個人」として存在していなかったかもしれない。仲間からの追放と「詩」によって否応なく「個人」として生きざるを得なかった女性の物語。それが『ゾリ』だという見立ても、また可能だろう。
さてここでまたふと、中島みゆきの「世情」という「歌」を思い出した。TVドラマ「3年B組金八先生」で、校内に警官隊が強制導入され、「腐ったミカン」=生徒たちが次々に連行されるシーンで流れた曲である。その歌詞。
世の中はいつも変わっているから/頑固者だけが悲しい思いをする/変わらないものを 何かにたとえて/その度崩れちゃそいつのせいにする/シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく/変わらない夢を 流れに求めて/時の流れを止めて 変わらない夢を見たがる者たちと 戦うため
しばしば難解、と言われた歌詞である。しかし、なんとまあ『ゾリ』の世界観としっくり寄り添う内容であることか。「変わらない夢を 流れに求め」るのはジプシーであり、だから彼らは流浪の民でもあるのだろう。「時の流れを止めて 変わらない夢を見たがる」のは体制であり、権力、もしくは時の主流派である。体制側の「善意」は、ジプシーの定住化という、きれいな外面を持った囲い込みを断行しようとする。ジプシーが果たして「変わらないもの」を求めているかどうかはわからない。しかし、皮肉なことに歴史は、人間の生活や環境というものは、これはどうやら抗いようもなく「変わってしまう」ものであるらしい。求められた「変わらないもの」よりも、不可避的に「変わってしまう」歴史のほうがはるかに圧倒的であるという事実。その前に投げ出されてある人の生の悲しさ。その悲しさを美しく救い上げた小説が『ゾリ』である。
最後に、作者のコラム・マッキャンは1965年生まれのアイルランドの作家であり、ロマ文化とはそもそもまるで接点がない。マッキャンは、イザベル・フォンセーカの著作『立ったまま埋めてくれ――ジプシーの旅と暮らし』(青土社から邦訳が出ています)に強く触発され、いまだにステレオタイプのイメージばかりが流布されているロマ文化への視線の変更を求める気持ちもあって、『ゾリ』の執筆を思い立ったという。フォンセーカの本に登場するパプーシャというポーランドの詩人の骨格が、ゾリというキャラクターに影響を与えているようだ。
1965年生まれの作家が、1冊の本にインスピレーションを受け、まるで縁のない1930年代以降のチェコスロヴァキアや東西ヨーロッパの歴史と人間を書く。そして世界20ヶ国で翻訳出版される。ロマ文化のタブーを真っ向から突き破るような所業(!)とも解釈できそうな「快挙」(?)だが、それは紛れもなく言葉の、そして近代以降の小説の持つ力の所以であると思う。