最近、翻訳ミステリ界にちょっとした変化が起き始めている。アメリカ産とイギリス産がほとんどを占め、あとは数点フレンチが並ぶといった、戦後半世紀以上も続いてきた定番メニューに、新たな顔ぶれが加わり始めたのだ。ドイツ(セバスチャン・フィツェック『治療島』/柏書房)やスペイン(カルロス・ルイス・サフォン『風の影』/集英社文庫)、ニュージーランド(ポール・クリーヴ『清掃魔』/柏書房)といった、これまでほとんど紹介されることのなかった国々の逸品が次々と供され、その新鮮でユニークな味わいが好評を博している。
中でも注目を浴びているのが、スウェーデンだ。激変する世界情勢を背景に、国内外の社会問題を直視し、九〇年代スウェーデン社会の変遷を描いて世界的なベストセラーとなった<クルト・ヴァランダー>シリーズ。ヘニング・マンケルによる、この骨太な大河警察小説を筆頭に、北極圏の小さな町で起きた宗教家殺しを扱った『オーロラの向こう側』(ハヤカワ・ミステリ文庫)に始まる、オーサ・ラーソンの<弁護士レベッカ・マーティンソン>シリーズ。「性犯罪者の社会更生は可能か」、という重いテーマに正面から取り組んだ、アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレムの『制裁』(ランダムハウス講談社文庫)。『喪失』(小学館文庫)で最優秀北欧犯罪小説賞を受賞した、心理サスペンスの新星カーリン・アルヴテーゲンの諸作等々。今翻訳ミステリ界はちょっとしたスウェーデン・ブームだ。
そんな中、”全世界で八〇〇万部を突破!””スウェーデン発驚異の三部作ついに刊行!”というキャッチコピーとともに鳴り物入りで紹介されたのが、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』(早川書房)だ。これは凄いぞ。通常こうした宣伝文句は、半値八掛けくらいで考えておかないと、読後がっかりさせられることが多いのだが、本書に限ってはそんな心配はご無用。掛け値無しの傑作である。
月刊誌『ミレニアム』を舞台に、産業界に渦巻く腐敗や闇取引を暴露し続けてきたミカエル。だが、気鋭の経済ジャーナリストとして築き上げた信頼と名声は、今や地に墜ちてしまった。大物実業家ヴェンネルストレムの違法行為を暴いた記事が名誉毀損と判断され、有罪判決を受けたのだ。失意の中、発行責任者の地位を降り『ミレニアム』から去った彼のもとに、<ヴァンゲル・グループ>の弁護士から仕事を依頼する電話が掛かってくる。凋落の一途を辿っているものの、かつてはスウェーデン経済の屋台骨と言われた大財閥の元会長ヘンリック・ヴァンゲルからの依頼に、好奇心を刺戟されたミカエルは、北部地方にある彼が住まう小島へと向かった。
そこで彼は、一族の忌まわしき過去を告げられた後、この中の誰が姪のハリエットを殺したのかを突き止めて欲しいと頼まれる。四十年前の一九六六年に、密室状態の孤島から忽然と姿を消してしまった少女ハリエット。一体何が彼女の身に起きたのか。ヴェンネルストレムを失墜させる新事実の提供と引き替えに、ミカエルは調査を開始する。
そのころストックホルムでは、一人の女性が重大な危機に直面していた。彼女の名前は、リスベット・サランデル。二十四歳だが十四歳くらいにしか見えない少女のようにきゃしゃな体格に、赤毛を漆黒に染めたベリー・ショート・ヘア。鼻と眉にピアスをし、肩胛骨の間にドラゴンの刺青という、エキセントリックな外見からは想像も出来ないが、セキュリティー会社随一の腕利き調査員であり、実はヘンリックの依頼でミカエルの事前身辺調査を徹底的に行ったのも彼女だった。
そんな彼女にとって悩みの種なのが、新しい後見人ビュルマンの存在だ。幼い頃から他人とうち解けず、社会的精神的ケアが必要と判断された彼女は、いまだ後見人制度の適用を受けており、しかもビュルマンは篤志家の仮面を被った人間のクズだったのだ。
ミカエルとリスベット--「庶民の貯蓄をばかげたITベンチャーへの投資に費やして金利危機を引き起こすような連中を監視し、その正体を暴くこと」を使命とする経済ジャーナリストと、「なされた不正をけっして忘れず、受けた辱めを決して許さない性質」で「うさん臭いものを暴くのが好き」な敏腕ハッカー--この魅力的な二人の主人公の軌跡が交わるとき、四十年前の少女失踪事件の謎を巡る調査は、新たな局面を迎える。そこには誰一人として想像し得なかった、おぞましい真実が……。
巨大企業の不正疑惑に挑むジャーナリズムという社会派ミステリとして幕を開けた物語は、すぐさま胡散臭い名門富豪一族の“戸棚の中の骸骨”探しという、古典本格ミステリの十八番へとスライドする一方、福祉国家スウェーデンが抱える闇を照射し、さらに別の貌--より深く根強い悪の物語--を呈示する。
幾重もの入れ子構造による複雑にして精緻な構成、リスベットを始めとして、深く掘り下げられた登場人物が放つ抗しがたい魅力、そして芯を貫く社会意識の高さ、即ち、作者による現代社会が直面している深刻な問題--女性虐待、表現の自由、暴走する強欲な資本主義経済--に対する確固たる批判精神。これらすべてを完璧に組み合わせ、第一級のエンターテインメントに仕上げた作者の力量には、舌を巻くしかない。本当に凄い作家がいたものだ。
ただ一つ残念なのは、そんな稀有な才能の持ち主がもはやこの世にいないことだ。ワーカーホリックでヘビースモーカーだったスティーグ・ラーソンは、本書の成功を見届けることなく、二〇〇四年他界した。享年五〇歳。
早すぎる死を悼みつつも、この後今年二〇〇九年四月に控える、第二部『The Girl Who Played With Fire』、そして七月の第三部『The Girl Who Kicked the Hornets' Nest』の翻訳を心待ちにしたい。