5年ほど前になる。「サンカ」と呼ばれた一家に会った。広島県の山間部。春・夏の間は、河原や野原に小屋掛けして川魚漁。ウナギやギギ(ナマズの亜種)、スッポンを採り、旅館や料理屋に卸した。秋からは、街に降りてきて、竹細工や棕櫚箒つくり。正月は、春駒(門付け芸の一種)で、遊郭や商店などをまわった。一畝不耕、一所不住の暮らしであった。
やがて、一家は避病院(伝染病院)跡に出来た公営住宅に入居。長男は地元の高校を出て、鉄工所に勤務。サンカではない女性と30代で結婚。はにかんだ笑顔を浮かべ、明敏で、頭の良さを感じさせた。
母親は、子どものころから、針を売り歩いていた。かさばらない針は、持ち歩きに便利だ。多くの家では、垢にまみれた粗末な衣服の少女から、針を買わず、金銭や一握りの米を渡した。その実態は、乞食と言って差し支えないものだった。
「恥かしい。親戚に顔向けできない」と苦しんだ妻の母親は、結婚の翌年に自裁した。
長男に、わたくしは「ぼくの父は漂泊の民・サンカだった」というテーマで本を書くことを勧め、了解をもらった。帰京後、正式な執筆依頼の手紙を書いた。しかし、返事は来ない。再度、投函。幾度かの電話。音信は、ここで途絶えた。
本書は、明治・大正年代に甲州・八王子を中心に跋扈した怪盗「黒装束五人組」とサンカとの関わりを軸に、近代日本の底辺、知られざる民衆史を掘り起こした力作である。
著者は共同通信の元記者。ロッキード疑惑でも活躍した。「現場百遍」のジャーナリストの金言どおり、サンカのいた北関東・埼玉一帯に幾度も幾度も足を運ぶ。結果、元サンカの赤沼夫妻と家族ぐるみの付き合いを重ね、赤沼夫人の母親・松島ヒロの戸籍抄本を入手する。もちろん、金銭の授受はなく、著者が頼んだわけでもない。
もともとサンカは無籍のことが多い。しかし、日中戦争、アジア太平洋戦争を進める必要上、積極的に当局は戸籍を与えていく。
その戸籍抄本の本籍地は、東京都台東区万年町(現・北上野1丁目)。万年町は人力車夫や人足、大道芸人、願人坊主、マッチの箱貼り・下駄の修理職人、紙くず拾い、祈祷師、物乞いなど、細民の集住地区。四谷鮫ヶ橋、芝新網町にならぶ東京三大スラムのひとつだ。サンカも、ここに寄寓していたのか。
普通なら、この程度の理解で終わる。しかし、著者は閃いた。明治時代に群馬県でおきた巡査殺し事件の犯人とされて刑死した「山窩(さんか)の親分」の住所地番と一致する。やや遅れて一都六県を荒らしまわった凶賊の成人した番地と隣り合わせではないか。
以降、パズルのピースをはめていく労苦と快感を読者は共有し、関東一帯を伴走することになる。
ご存知、埼玉の観光名所・吉見百穴。ここも、かつては、乞食、サンカの住まいだった。江戸中期に「角兵衛」という非人の一家が居住。これは文献上でも確認されている。明治初期は、横穴のうち、二十二基で「乞食」が暮らしていた。
甲府市竹の鼻。ここには行路病者の収容施設があり、300メートル西を流れる荒川(笛吹川の支流)の藪には、小屋が点在。黒装束五人組のアジトのひとつであり、しばしば「乞食部落」などと呼ばれていた。この竹の鼻のような集落は、そのころ日本中の至るところにあり、山梨県には、同種のセブリ(野営)集落が少なくとも7、8ヶ所あったという。
静岡県富士宮市。大石寺(たいせきじ/現在は日蓮正宗の総本山)の五重塔下は、県内ではよく知られた山窩のセブリ場であった。かつては創価学会の一大聖地。学会員や法華講以外の参拝客の奉安堂への立ち入りは、いまも厳禁だ。
蛇足になるが、徳川幕府は、江戸を京都のコピー都市として建設していった。比叡山が上野の山で、ここに東叡山寛永寺(将軍家の菩提寺)を置いた。不忍池は琵琶湖。三十三間堂も、現在の富岡八幡宮(江東区)のとなりに設けた。この三十三間堂の軒下に、大勢の乞食・非人が暮らしていた。
かつて、大寺院の境内は、管理を受けない、まつろわぬ人々のアジ―ルであったわけだ。