この頃、父親のエイブラハムは、食い扶持を稼ぐべく、ペーパーバックの表紙を手がけている。バレット・ルード・ジュニア同様、後にエイブラハムも、SFアートの革新者として、マニアの間で高い評価を得ることになるが、それがエイブラハムにとって、幸せなことだったかどうかはわからない。
本書の通奏低音となっているのは不全感だ。バレット・ルード・ジュニアもエイブラハムも、息子たちにとっては“成功しなかった父”である。彼らの親子関係における抑圧のありようは、ひどく屈折している。そして、不能に覆われた世界を象徴するのが、フライングマンなるヒーローの存在だ。死に瀕した浮浪者から受け取った指輪をはめ、ディランとミンガスは空を飛ぶ。手製のみすぼらしいユニフォームを身にまとって――。
本書のありようは、リアリズムを逸脱している。だからといって、いわゆるファンタジーとも異なる。なにしろ、フライングマンのエピソードは“英雄神話が成立しないこと”を示すためだけに添えられているのだから。父性を欠いた父に、活躍しないヒーロー。そのような世界にあって、息子たちはどう成長すればいいのか。その点、カレッジ時代のディランがディーヴォに入れあげている場面は印象的だ(ディーヴォというバンド名は「退化(devolution)」から採られている)。
第三部の舞台は90年代以降。前述した「ライナーノート」(第二部)を挟み、大人になった(というよりも、大人になりきれなかった)ディランやミンガスのその後が描き出される。第一部がアナログ盤のA面だとしたら、第三部はB面といったところだろうか。SFファン主催のコンベンションに、いまやSFアートの巨匠となった父エイブラハムが招かれ、ディランもそれに同行する(コンベンションのプログラムとして、エイブラハムのフィルムが上映される場面が差し挟まれるが、その様子はいささか感動的だ)。
物語の終盤、父と息子は、悪天候の中を移動する。そのとき、カーステレオから流れてくるのは、ブライアン・イーノの『アナザー・グリーン・ワールド』。
「その音楽は、猛吹雪の非現実性に対して、理想的なサウンドトラックとなった。エイブラハムは現に迫りくる危険と悪戦苦闘していた。だが、『アナザー・グリーン・ワールド』の不可思議な静謐さは、エイブラハムの努力を認め、同時に、ぼくたちをなだめるように思えた。イーノは歌っていた。“わたしには行間が見えない。昔は読み取れると思っていたのに――”」
それは、すでに少年ではなく、にもかかわらず、ついに大人になりきれなかったディランに寄り添うサウンドでもあるだろう。そして、そのことをディラン自身が、痛みとともに、深く理解している。それゆえ、彼はこんなふうに内省する。
「ぼくがこのアルバムや、ほかのあるもの――『リメイン・イン・ライト』『オー・スーパーマン』『ホーセス』――で、ひかれたのは、それらが呪文で呼びだし、そして、はまりこんだミドルスペースだった。ボヘミアンの社会であり、ヒッピーの夢だった。そういう場、そういうありえない話は、最後には、ぼくが忌み嫌うもの、ただただ、とまどうだけのものとなった」
ジョナサン・レセムについて説明しておこう。1964年、ブルックリン生まれ。1994年に『銃、ときどき音楽』(早川書房/現在絶版)で作家デビュー。これは近未来を舞台にしたSFハードボイルドで、ネビュラ賞の最終候補となった。5作目の長編『マザーレス・ブルックリン』(早川書房、ミステリアス・プレス文庫/ともに現在絶版)は、全米批評家協会賞と英国推理作家協会賞をダブルで受賞。だから、SFやミステリの熱心な読者であれば、彼の名前に見覚えがあるかもしれない。本書『孤独の要塞』は自伝的な要素を盛り込んだ小説。これまで紹介された2作同様、特異な設定と洗練された文体によって、独自の小説空間を構築することに成功した。
●ジョナサン・レセム公式サイト(面白い!!)
http://www.jonathanlethem.com/