あまりに人間臭い巡礼日誌である。
だれしも自分の恥をあからさまにさらしだすことはしたくない。とりわけ自分の排便行為についてあれこれ書くのは避けるのが普通であろう。ところがこの人は違う。違うだけではなく、こと細かに書きつづっている。本のスタイルは巡礼日誌になっているが、排便日誌といってもいいほどである。そのほとんどが野糞であり、傍目を気にせずしている。駅のトイレが使用中のときは、トイレの外で大便をして駅員から咎められた話もあるし、一日5回もした大便をどこでしたかまで書いている。パンツにもらした話も出てくる。本人も自覚しているが、強迫神経症のための薬と下剤もいっしょに飲んでいて、そのため突発的に便意を催すらしいのだ。
それにしても、と思いながら、ここまで自分をさらけだすことができる作家の凄みを知らされる。お遍路といえども自分の過去を清浄にして極楽往きの切符を手に入れる美しい行動ではなく、そこには有象無象の醜いことが日常的に繰り広げられている世界であることを剔抉(てっけつ)しているのではなかろうか。
車谷長吉は、人間の醜さ、浅ましさを書くことを商売にしているのが作家だという。「自分が阿呆とわかった時に、はじめて作家になれる」と書いている。53歳で直木賞をもらうまで、1日4時間以上寝たことがなく、ひたすら勉強してきたともらしている。これほどの強靱さはどこからくるのだろうとどうしても思う。繰り返し書いているように、タコ部屋暮らしをしながら料理場の下働きをしてきた底辺の経験が、この私小説作家の原点である。「赤目四十八瀧心中未遂」を読んだときの衝撃はいまでも忘れない。車谷長吉は一時、広告代理店にいたことを知り、コピーライターだった僕は親近感を抱いている。作家に憧れたこともあるけれど、この人の桁外れの経験と努力を読むに到って自らの凡庸さを思い知った。彼の文を読むといつも鬱屈してしまうのだ。それでいて溜飲を下げる、不思議な感覚を味わう。それほど鮮烈なのである。
その後、車谷長吉は私小説作家を廃業宣言した。多くの人をモデルにし、傷つけ、訴訟を起こされ、怨まれてきたのだ。自分の父親についても、狂死したと書いている。お遍路で会ったさまざまな人を洗いざらい書くことの恐怖を知っていながら、書かざるを得ない作家の性を見たような気がする。今回の巡礼には罪滅ぼしが含まれているから、自分の醜さをも露わにすることでバランスをとっているのだろう。「自分が作家であることに強い自己嫌厭を感じてきた」人なのだ。二度と人間に生まれてきたくないとまで告白している。それだからこそ、車谷長吉の人間としての叫びに素直に耳を傾けることができるのではないか。
巡礼者である彼にお茶を差し出したり、両手を合わせたりする人には、こころからの感謝の気持ちを伝えている。いままでお世話になった無欲の恩人たちには名前を挙げ連ねて頭を下げている。恥を知り尽くした人だからこそ、清々しいし、潔い。
手っとり早く極楽に行きたい巡礼者を、徹底的にこき下ろしている。お遍路の約9割は、バス、タクシー、自家用車でまわるそうだが、楽をして極楽へ往生したいと願うような人間は浅はかで地獄へ行くとはっきり言う。「その種の欲望自体が悪であり、地獄へ行ってもいいと覚悟することが大事である。」と説く。「自分のまやかし」と対峙するには、自分の醜悪さを知ることだ。簡単に手に入れられるものは、本物ではない。彼が巡礼で学んだものがじわじわ伝わってくる。
どんなに相手を罵倒しようとも、心の痛みを知っている作家である。各札所で押してもらった判衣を母親の棺に納めたいという心やさしい作家でもある。厭世的なものの見方にひそむささやかな幸福感の吐露は、人を納得させる。
中国奥地のシルクロードを歩いた時、僕も1週間以上、野糞をしたことがある。広大無辺な風景を見ながら、脱糞した快感は忘れがたい。僕の糞は放牧された牛や羊の糞にまぎれて風化してしまったかもしれないけれど、車屋長吉が野糞した田んぼや畑の持ち主からは、新たな怨みを買っているのではないか。
因業な作家である。