J・C・レインデッカーというイラストレーターの名前を聞いたことがあるだろうか? 名前は知らなくても、彼の絵には見覚えがあるはずだ。二十世紀初頭、アメリカで彼ほど人気があるイラストレーターはいなかった。アメリカで最も読まれている雑誌、「サタデー・イブニング・ポスト」の表紙を四十四年間に渡って飾り、シャープで、マスキュリンでモダン、そんなアメリカ的な美に溢れた彼の画風を印象づけた。現在、世界中に流布している「赤い服を着た太った老人」というサンタクロース像は、もともと「サタデー・イブニング・ポスト」のクリスマス用の表紙にレインデッカーが描いたイラストを基にしたものである。母の日に花束を贈る習慣も、彼が描いた表紙から始まった。レインデッカーの画風から大きな影響を受けたのがノーマン・ロックウェルである。ロックウェルはレインデッカーに憧れるあまりに一時期ストーカーと化したほどだった。追いかけて会うことが出来ても、陰のある美男子で、隙のないダンディである本人を目の前にすると、ロックウェルは物も言えなかったという。
現在もなお世界的な人気を誇るロックウェルと比べると、レインデッカーの名前は忘れ去られているのに等しい。何故だろうか。全盛期だった二十年代と比べて、大不況時代の後のキャリアの凋落があまりに激しかったせいか。それとも、いかにも万人受けしそうな、温かみのあるノスタルジックなロックウェルの絵と違い、どこか危険な色香が漂う、その隠れた退廃性が人々に警戒心を抱かせるのか。
本国ではようやく再評価の機運が高まり、「サタデー・イブニング・ポスト」のために彼が描いた表紙を中心としたこの作品集が昨年発売されて話題を呼んでいる。ノスタルジアを誘う表紙イラストと共に目を惹くのは、レインデッカーが描いた広告の美男子たちだ。
レインデッカーが1905年から「アロウ・カラー・シャツ」のために描いた、通称「アロウ・カラー・マン」は広告イラスト初のスターどころか、セックスシンボルとさえ呼ばれている。胸板が厚く、腰が引き締まっていて足が長いという理想的な体型、見事な着こなし、アポロンのようなルックスはアメリカにおけるハンサム像の定番となった。女性たちは架空の「アロウ・カラー・マン」に夢中となり、会社には週に千通ものファンレターが届いた。その人気は時の映画スター、バレンチノを凌駕するとも言われていた。ルーズベルト大統領さえ、「男性の理想的な肖像」と「アロウ・カラー・マン」を褒め称えた。スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の主人公は、当時の読者に「アロウ・カラー・マン」のイメージを彷彿とさせた。
美しいスーツや夜会服に身を包んだ「アロウ・カラー・マン」や、レインデッカーが描いたアイビー・リーグのスポーツ選手たち、神話の登場人物を見て欲しい。当時は指摘されなかったが、現代の視点で見ればはっきりと分かるはずだ。レインデッカーが描く男性はホモ・エロティックな魅力に溢れている。「アロウ・カラー・マン」のモデルは、レインデッカーの生涯の恋人であった男性、チャールズ・ビーチである。ビーチは最初はモデルとして、その内に恋人としてレインデッカーの生活に入り込み、モデルや画材の調達、セレブリティたちを招いたパーティの補佐役、身の回りの世話まで一手に引き受けるようになった。レインデッカーのキャリアが停滞してからは、二人は公の場に姿を現すこともなく、ニューヨーク州の郊外、ニューロシェルの屋敷でひっそり暮らしていたという。ロックウェルは「白くて巨大な寄生虫」と呼んで、チャールズ・ビーチを憎んでいた。
1951年にレインデッカーが亡くなった時、葬式に参列したのはビーチとロックウェル、親族を含めたわずか七名であった。二十年代に栄華を極めた画家としては、あまりに寂しい晩年だった。レインデッカーの死後、ビーチは屋敷の中を破壊し、残っていた絵を庭先で売りさばいたが、知り合いのイラストレーター数人とゲイのカップルの私生活に興味を抱いた物見高い近所の人々しか来なかった。レインデッカーの作品は全部でわずか七ドルにしかならなかった。一年後、レインデッカーの後を追うようにチャールズ・ビーチは亡くなった。
レインデッカーが描いたアメリカの輝きは、こんな時代だからこそせつなく胸に迫る。いまだに日本では完全版として翻訳されないフィッツジェラルドの『ジャズ・エイジの物語』の表紙に、これ以上ぴったりな絵があるだろうか。レインデッカーの絵を表紙に使ったフィッツジェラルドの全集が出ることを夢に見ながら、私は彼の画集を眺めている。