【ところでこの彼の冬の夢というのは、内容もさまざまなら、それを生み出した状況も無論一様ではなかったけれども、夢の本質はいつまでも変わらなかった。(中略)彼はきらめく物やきらめく人間との接触がほしかったのではない――きらめく物そのものがほしかったのである】
短編のエッセンスを濃縮還元したようなパッセージだ。きらめく物でもない、人でもない、きらめきそのもの。ここを読んで『冬の夢』の主題がまるっきりわかったような気になる、それくらいあやうい箇所であるにもかかわらず、フィッツジェラルドがすごいのは、同時に「きらめく物そのもの」を、どうにも掴むことのできない、煙のように吸い込むしかないようなものとして小説の中に流通させることである。
「夢」ではなく、「冬の夢」と作家は何度か書いている。これはなにか。小説の冒頭近く、こんな箇所がヒントになるかもしれない。
【秋になって、ひんやりと乾いて薄暗い日々が続き、そのうちにミネソタの長い冬が、箱の蓋でもしめるように白く大地を閉ざすと、デクスターのスキーがゴルフ・コースのフェアウェイを蔽い隠した雪の上を動き廻る。(中略)
四月になると唐突に冬は姿を消した。気の早いゴルファーたちが、赤や黒のボールで雪のコースに挑もうとするのも待たずに、いち早く雪は融けてブラック・ベア湖に流れ下る。気持が昂揚する暇もなく、湿り気を帯びた光があたりをみたす時期もないままに、いきなり寒さが去ってしまった。】
表現を、なんでも隠喩や象徴めかして読んではいけないと思うけれど、長い冬、雪の上を動き廻るスキー、唐突に姿を消した、いきなり去ってしまったという表現、ボールの赤や黒、などなど気になる箇所がいくつもある。つまりこうだ。春、夏、秋は現実世界が作動している時期であり、対して長く閉ざされた冬は、あたかもゴルフのグリーン(greenは主人公の名でもある)の上に蓋をする雪のスクリーンに投影される夢のよう。そこで想像力はスキーを履いて縦横に動き回るものの、あれだけ長かった冬は唐突に終わってしまう、あの冬の夢は、いきなり消えてしまう……
『冬の夢』のデクスター・グリーンは、ジュディの激しい男出入りにも耐え、再会の高揚と、それがまたしても1ヶ月しか続かなかったこと、さらに何の罪も無い妻を傷つけ、世間の非難も意に介さないほど強靭な男になった。しかし三度目、ジュディは目の前にはいなくて、伝聞でその容色の衰えを聞かされた時、すでに終わったと思っていた打撃が実は終わってなどいなくて、今まさにその渦中に自分が蹂躙されていることを知ることになる。この場面は、このうえなく残酷である。
【これまで彼は、もう他に失うものはないのだから、いよいよ自分も不死身の身体になったと考えていた――が、今彼は、自分がまた新しく何かを失ったことを知らされた。それはまるで彼がジュディ・ジョーンズと結婚して、彼女の容色の衰えてゆくのをその目で目撃したような、間違いのない事実であった。】
フィッツジェラルドの小説において、「美人」や「金銭」は非常に重要である。なぜならそれは、冬の夢へのゲートだから。しかしゲートである以上、重要だがそれらは目的地ではない。
若くて、美しくて、金持ち。要するに、いつまでもそんなことは続かないって話じゃないか。そのとおり。しかしそのことについて、フィッツジェラルドほど、正しく(!)パニックになった作家が他にどのくらいいるだろうか。近い将来に失われる、ただその確実さによってのみ、きらめくもの。絶対に勝利しないもの。冬の夢。
かつてそれは確実にそこにあり、いまはもう、消えてしまった。そうした感覚に、何度も何度も打ちのめされること。フィッツジェラルドを読むのはそういう種類の経験であり、中でも『冬の夢』は、その、とりかえしのつかなさにおいて、一頭地を抜いている。
ロングドレスを着た年上の歌手の、きれいな淋しい笑顔はかつてそこにあり、しかし彼女にリクエストをすることは、もうけっしてできない。
どなたか京都の「フィッツジェラルド」を知りませんか?