トニ・モリスン(この人も女性だ)は、ノーベル文学賞受賞演説を、彼女が子供時代からずっと親しんできた民話(他人の言葉!)の紹介から始めている。奴隷の子孫で、盲目の老婆がある所にいた。そこに近所の子供たちが悪戯にやってきて、こう訊ねる。「お婆さん、僕の手の中に小鳥がいるんだけど。小鳥は、生きているか、死んでいるか。」
長い沈黙の後、ようやく口を開いた老婆の言葉は次のようなものだ。
【わからないねえ。あんたが持ってる小鳥が、死んでいるのか、生きているのか、わからないねえ。でもはっきりしているのはね、それがあんたの手の中にあるということ。あんたの手中にあるってことだよ。】
トニ・モリスンは、このやりとりから、盲目の老婆に対して自分たちの力をひけらかし、老婆の無力をあげつらおうとした子供たちに対し、「目が見えないお婆さんは、力そのものではなく、力を行使する手段へ注意を向けました」「(子供たちは)小さな命に対して責任がある、と言われたのです」と、解説している。
そしてさらにその先の思考に、トニ・モリスン固有の言葉がある。
【手中の小鳥の意味を、私は強い好奇心から(小さな弱い存在であること以外について)考えをめぐらしてきましたが、特に今、この会場に私がよばれた自分の仕事を思い、深く考えをめぐらしています。それで私は、小鳥を言葉と解釈し、お婆さんを現役の作家と見なしたいとおもいます。お婆さんは、自分が夢を見る言葉、生まれたときに与えられた言葉が、いかに扱われ、使用され、またいかにして不埒な目的に使われるのを抑止できるか、心を砕いています。】
小鳥としての言葉。それはいつどこにいても届くのではないらしい。かすかな言葉は耳を澄ませなければ聴こえない。しかし、頼んでもいないのに、朝、向こうから窓辺にやってきて、起こしてくれることもあるようだ。
言葉は小鳥である。それは人間の注意力を敏感にし、気持ちとアタマをさわやかにほぐし、音楽になる。『アメリカの黒人演説集』には、何羽かの、アメリカ原産の小鳥が確かに棲息している。