一人の作家の作風を簡単にまとめるのは、いついかなる状況においてもたいへん難しい。妙に単純化してしまっては、大事なものが零れてしまう。しかしあえてその危険を侵すと、貫井徳郎は、デビュー作『慟哭』(創元推理文庫)以来、近作では『夜想』(文藝春秋)のように、重いテーマを中心に据えて歯応えのある人間ドラマを展開し、読者の感動を誘ってきた作家である。文章が読みやすく、リーダビリティに優れているため、さほど硬いイメージがないのも特徴といえるだろう。
だが反面、貫井徳郎には非常にダークな一面がある。やや下世話な人間ドラマを、卑近で浅薄な側面を強調しながら、実にいやらしく描く――それが彼のもう一つの特徴である。短編集『崩れる』(集英社文庫)、近作の長編『愚考録』(東京創元社、近々創元推理文庫に文庫落ち予定)は特に顕著で、心温まったり切なかったりする感動の物語とは全く違う、身悶えするほどヤな話が読者の前に姿を現している。
本書『乱反射』は、そんな貫井徳郎が、この二つの顔のイコールバランスでの融合を目指した作品である。
まずプロローグで作者は、「大勢の人間が寄ってたかって無辜の幼児を殺したという、異常極まりない事件」を描くと宣言する。これは、幼児が群集に暴行を加えられて殺される、という単純なものを意味しているのではない。日常生活で誰もがやっているような、ほんのちょっとした「無責任な行動」が偶然積み重なって、不幸なことに幼児の死という結果を招く、というだけに過ぎないのである。法的には殺人ではなく、それどころか過失致死ですらないかも知れない。被害者の感情面では、これは殺人に他ならないかも知れないが、世間的には事故以外の何ものでもない。それが本書の事件の概要なのだ。
プロローグ後、本編最初の章は「-44」と表示される。そして次の章は「-43」で、以降「-42」「-41」「-40」というように、数字が一つずつ進んでいく。これが「0」になった章で、幼児の命を奪う事故が起きるのだ。それ以後は「1」「2」と数字が増える。本書は、マイナスの番号が振られた章で「事故が起きるまで」を、プラスの章で「事故後が起きてから」を、いずれも群像劇として描いている。
登場人物は多岐にわたる。学生、主婦にOL、医師やリタイアした元会社員など、老若男女が入り乱れ、それぞれに少しずつ無責任なことを仕出かすのである。ここで素晴らしいのは、彼らの置かれた状況が一々、実に卑しく描かれているということなのだ。
二、三、例を挙げていこう。
一流企業の部長を夫に持つ主婦の田丸ハナは、自分の夫の稼ぎがいいことを鼻にかけ、近所づきあいする他の主婦たちを内心小馬鹿にしている。だが彼女の世界観は単純な善悪二元論にもとづくもので、負担が重くないボランティア活動で社会的責任を果たしたような自己満足を得るなど、どうにも俗物臭が強い。そんな彼女の真の姿は、実は彼女が常日頃馬鹿にしている主婦たちに見透かされており、陰で笑われているのである。
定年退職した三隅幸造は、現役時代に家族を省みなかったため、家族と実のある会話ができない寂しい生活を送っている。その慰めに彼は犬を飼うが、持病の腰痛のためしゃがめず、散歩中に犬がした糞を処理できない。しかし彼は、これまで自分は必死に頑張って日本を支えて来たのだから、犬の糞の掃除ぐらい若い世代がやって当然だとして、毎日、そのままにして帰ってしまうのだ。女子高生に糞を処理して帰れと注意されると、目上の者にその態度は何だと逆ギレする始末である。そしてテレビのニュースを見て、最近の若者はマナーがなっていないと義憤に駆られる日々を送っている。
医師の久米川治昭は、最近とみに多くなった患者や遺族とのトラブルに嫌気が差していた。彼の意見では、最近の患者とその家族は、病院側の事情など一切斟酌せずにすぐ医療事故だ診断ミスだと騒ぎ立てる。そんなつまらないことで詰め腹を切らされるのは真っ平御免、久米川は責任の軽いアルバイト医師として働くことにしており、三軒の救急病院を掛け持ちしている。