18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖職者、教育者、そして暦編集者として活躍したヨハン・ペーテル・ヘーベルによる「暦話(カレンダーゲヒシテン)」集。「暦話」とは、暦すなわちカレンダーに、月日、曜日、祝日などと併せて掲載されていた、娯楽的あるいは教訓的な物語のことで、巻末解説によれば、17世紀半ばから19世紀に至るまでのヨーロッパでは、「情報・教化・娯楽の機能を具えた暦は民衆の生活の中に深く溶け込み、十九世紀に至るまで、暦は聖書、讃美歌集、教理問答集とともに、一般民衆にとってほとんど唯一の読み物だったのである。」(木下康光「解説」、247)とのことです。
ここに集められているのは、書籍や雑誌といったメディアに掲載される「文学」よりも、もっと庶民の日常生活に近い「おはなし」、あるいは科学・実用知識のたぐいです。たとえていうなれば、近所の酒屋さんでもらってくるカレンダーや、小学校の給食の牛乳パックなどに印刷されていた昔話や豆知識のたぐいを彷彿とさせるような感触があります。しかし、あらゆる読み手に対して無償で差し出されているかに見える、これらの平易でささやかな「おはなし」の数々のうちには、思いもよらぬ陶酔を誘う深く贅沢な味わいが至るところに隠されています。ヴァルター・ベンヤミンが、「比類なき物語作者」と呼び、マルティン・ハイデガーが、その「この上もなく単純にして澄み切った、それと同時に、及ぶもののない程奇しくも美しき、而も深い思いに沈んだ言葉」を讃えたのもむべなるかな。
たとえば、お話自体はたぶん皆が知っている「鼻にくっついたソーセージ」の再話『三つの願い』で、貧しい夫婦の前に現れた美しい妖精の、きらきらと光り輝くような自己紹介のことばといったらどうでしょう。
「私はあなた方のお友達で、山の精のアンナ・フリッチェ。山の中の水晶のお城に住んで、目に見えない手でラインに黄金の砂を撒き、七百の妖精を召し使っています。あなた方に三つ願い事をすることを許します。三つの願いをかなえてあげます。」(14)
へーベルの暦話の描き出す19世紀初頭のヨーロッパは、しかし、妖精さんとお姫さまの遊びたわむれるメールヒェンの世界ではありません。「ヘルスフェルトの司令官と歩兵たち」「ナイセの軽騎兵」において生々しく描写される軍隊による破壊と掠奪の恐怖。あるいは、買い付けに訪れた肉屋の懐の大金を見てふと魔のさした農家の夫婦が、実のわが子すら手にかけながら、何の逡巡も躊躇もなく重ねてゆく連続殺人を物語るスピーディーな叙述が、ふと『悪魔のいけにえ』を思い起こさせもする「恐ろしい事件が卑しい肉屋によってあばかれた次第」。そこに広がっているのは、悲惨な戦乱、酷薄な権力、残忍な犯罪が、たえず罪なき人びとの犠牲を強いてやまない、苛酷きわまりない世俗の世界です。
とりわけ、「勤勉な人々」から「泥棒」までさまざまな階層の庶民たちが営む平穏な日常生活が、火薬の爆発事故によって一瞬のうちに崩壊し、大量死と破壊の嵐が吹き荒れたのち、意外な方面からの救援がもたらされるまでの成行きを、簡潔そのものの筆致で語る「ライデンの被災」は、この世界の際限のない苛酷さと、それと拮抗するだけの救済への希望をひとしく見据えるへーベルの眼差しが、もっとも鮮明に表れている一篇といえるでしょう。
――そのとき、突然、轟音が起った。七十樽の火薬を積んだ船に火災が発生し、船が空中に吹っ飛んだのである。そして一瞬のうちに(皆さんはとてもそれと同じ速さで読むことはできない)長い通りに面した家々が、中にいる住民もろとも、木っ端微塵に砕けて崩れ落ち、瓦礫の山となるか、もしくは甚大な被害をこうむった。何百人もの人々がこれら瓦礫の下に生きたまま、あるいはもう死体となって、埋まっていた。(61)
・・・・・・多くの救援活動が行われた。イギリスはオランダと交戦中だったにもかかわらず、ロンドンからは、被災者のための救援物資を満載し、多額の義捐金を積んだ船がいく隻となく到着した。これはいい話だ。戦争をけっして人間の心の中にまで入り込ませてはならないのだから。(62)
かくして、理不尽な暴力と惨事の脅威にさらされ続ける同時代のヨーロッパの民衆の生死を、万感の同情を込めて描き出すへーベルですが、決してかれらを神や絶対的な権力による救済を待つのみの無力な犠牲者としては扱うことはありません。なけなしの善良さや知恵や勇気、あるいは幸運を頼りに、自分自身とその家族、隣人たちの生命と幸福と尊厳を守り抜こうとする普通の人びとの悪戦苦闘が、かれらを脅かす暴力や惨事の巨大さと、思わぬ形で拮抗し、勝利してしまう過程を見守るうちに、悲惨と残酷の感覚が、にわかに爽快な解放感、そして笑いへと転じてゆく瞬間にこそ、へーベルの暦話を読むことの大いなる愉しみがあるといえるでしょう。
へーベルの暦話の世界における「ヒーロー」とは、高潔な王侯貴族たち、ささやかながら尊い美徳をそなえた善良な小市民たち、愛すべき一本気な庶民たちばかりではなく、はったりやぺてん、詐欺やかっぱらいの才覚によって苛酷な人の世を渡ってゆく「泥棒」たち、そして「ユダヤ人」たちです。
「ズンカドウに住むユダヤ人」が、いつも「ユダ、ユダ、ユダ公」と罵声を浴びせてくる子供たちに辟易しつつ、「もしこちらが罵り返せば、むこうはもっとひどく罵るだろう。こちらが一つ投げれば、むこうは二十投げ返してくるだろう。」と考えをめぐらしたのち、知恵と経済力とおそるべき忍耐力をもって、とうとう子供たちとの間に平和な関係を樹立するに至る「叱るより誉めよ」。あるいは船賃を持たずにライン下りの船に乗ったユダヤ人が、他の乗客たちと壮絶ななぞなぞ合戦をくり広げ、みごと文無しの窮地を脱する「儲けのいいなぞなぞ商売」。差別され、疎外されている社会的弱者でありながら、一切の暴力に頼ることなく窮地を切り抜けてゆく狡知にたけた「ユダヤ人」たちは、へーベルの暦話においては、つねに全面的に肯定され、拍手喝采を送られるべき存在です。わけても「儲けのいいなぞなぞ商売」は、じつに痛快な「弱者の逆転物語」であるばかりか、『頭の体操』的なぞなぞが全部で11個も収録され、最後は算数の問題でオチがつくという、まさに「情報・教化・娯楽」そして「物語」の魅力を奇蹟的な効率性でまとめあげた、「暦話」のイデアとはかくなるものか、という一篇です。
へーベルは、生涯300編の「暦話」を書いたということですが、本書に収録されているのはその内58編 ―― というのは、ひとたびその魅力に病みつきになってみると、いかにも少なすぎると感じられます。いつか全訳を読める日は来ないものでしょうか。