自分がいる世界と、自分がいない世界の違いを、あなたは見てみたいと思うだろうか。自分がどれだけ世の中の役に立っているか、自分がどれだけ世の中をダメにしているか、もしくは、自分なんかいてもいなくても世の中は何も変わらないのかが、一目瞭然にわかってしまうのである。私は、見たくないなと思う。未来を決定する、日々の選択の分岐点の正しさを検証してみたいという誘惑にかられることはあるけれど、自分のせいで物事が悪化したことがひとつでもあるならば、いや、あるとわかっているからこそ、それを確認するなんて、悪夢以外の何ものでもないと思うのだ。
しかも「ぼく」の場合は、自分よりも優れた他人が自分の代わりをつとめる世界を見せつけられてしまうのだから残酷すぎ。あ、でもこれって、会社では日常茶飯事なのかな。ミスをして異動になった前任者は、排除されたボトルネックのような心持ちで、後任者が実現する<正解>を目の当たりにしなければならないのだとしたら―。
だが、いうまでもなく、人の存在価値は数値では計れないし、白と黒以外の選択肢だって無限にある。<自分はダメな人間だから悪いのはぜんぶ自分のせい>なんて思い始めたらきりがない。自分よりも優れた他人に囲まれているのだとしたら、それは、他人に助けてもらえる幸せな人生なのではないだろうか。
「ぼく」が珍しく強い調子で、あることについてあまり話したくないんだ、と言うとき、明るくて頭がよくて想像力のある姉が「ぼく」に放つ皮肉的な言葉が忘れられない。
「ふうん。ネガティブな方向には、骨があるんだ」
希望がもてる言葉だ。ポジティブな方向に骨がなかったとしても大丈夫。一見効率の悪いボトルネックにだって、意味があるのだ。だって、ネックが太かったら、お酒がどばどば出ちゃうじゃないか。こぼれちゃうじゃないか。飲み過ぎちゃうじゃないか。美しくないじゃないか。細い首のボトルのほうが、ゆっくり、だけど、こぼさずにうまく注げるじゃないか。生きていく上で、多少の時間のロスがあっても、後悔しなくていい。人生を自らの手で切り開くとか、効率を求めて日々進歩するとか、しなくたっていい。『ボトルネック』を読んだあとには、「省エネスタイル」や「小市民スタイル」にも、よりいっそう共感してしまう。それは、非力さではなく、チャーミングな賢さなのだ。世の中を最後に救うのは、ボトルネックかもしれない。
「ぼく」は、ラストシーンでふたつの道を思う。
「真っ暗な海と、曲がりくねった道。それは失望のままに終わらせるか、絶望しながら続けるかの二者択一。そのどちらもが、重い罰であるように思われてならなかった」
この後、残り5行しかない。なんて絶望的な結末だろう。しかし、最後から2行目で「ぼく」はうっすら笑うのである。そして、うっすら笑った原因が最後の行で明かされるのだが、ここにはいろいろな含みがある。私は、勝手な想像をめぐらせてみたが、こんなにポジティブな結末はないと感じた。二者択一で行き詰まったときや、ネガティブ思考のスパイラルに陥ったときには、このシーンを思い出して、うっすら笑ってみようかなと思う。