マザー・テレサが死刑執行に立ち会ったら「やめてください」と叫ぶに違いないのに、日本の教誨師はなぜ叫べないのか。「法律とはなにか。宗教とはなにか。人間性とはなにか。非人間性とはなにか。愛とはなにか」。辺見庸は質問を発し続ける。
同じく光市母子殺人事件を彼も採り上げている。その弁護団は「公共敵」と激しく叩かれ、「世間」を敵にまわした。日本では「世間を敵にまわすことが最大の悪事」なのだ。EU欧州連合の理念に「いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵である」と書かれていると指摘する。この殺人を犯した人間さえ、その人格は不可侵とEUは謳う。死刑廃止はEU加盟国の条件でもある。日本の残酷な「世間」のありようと真っ向から対立している。世間には「集合的なエモーション」があり、すなわち「麻原を早く殺ってしまえ」というような感情。「大勢の人がすることが世間にとって正しいこと」であり、司法も世間を背負っていると主張する。
辺見庸はさらに踏み込む。「死刑は国権の発動であり、自国民への生殺与奪の権利を国家に与えている。敷衍していくと戦争は大規模な死刑執行ではないか」。この点において、死刑廃止国のEUの兵士たちが他国で殺人を犯しているのは、EUにも欺瞞や狡猾さがあるとまで臆することなく言っている。彼の持論では、死刑と戦争は同時に否定しないと矛盾するのだ。
さらに、彼はスパルタクスの反乱を例に出し、反乱を指揮した剣闘士で奴隷のスパルタクスをつかまえようと役人が奴隷たちに叫ぶシーンを説話として持ち出す。「スパルタクスはどいつだ?」この言葉こそ、死刑廃止を支持している人間に向けられている世間の声だと言う。辺見庸は答える。「私がスパルタクスです」。個が名乗りをあげることで動かないものが動いていく。「死刑制度の薄暗い前線」で、辺見庸は「愛」と「痛み」で革命を起こそうとしているのかもしれない。自らを死刑根絶の礎にし、その屍を乗り越えていけ、というような激越なメッセージである。ある確定死刑囚を友人と言い切る辺見庸を僕は心底畏怖する。
死刑制度のある国に住むことは、死刑執行に「世間」の一員として加担することになる。
それが幸せなことかどうか。否、幸せではないことは自明である。有史以来、続けられてきた死刑執行を21世紀に断ち切ることができるのか、それとも日本は独自の死生観に基づいて、執行を続けるのか。個人が問われている。ふたりの作家は、それぞれの方法論で死刑廃止を宣言した。
僕はといえば、優柔不断である。「地球最後の日」ではなく、「僕の最後の日」が近づけば唐突に死刑廃止を宣言できるような気がする。
『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』
森 達也 朝日出版社
『愛と痛み 死刑をめぐって』
辺見 庸 毎日出版社