『1Q84』を読んでいる3日間のあいだに、二度、金縛りにあった。勘弁してほしい。経験のある人にはわかると思うのだが、あれは実に不快なものである。人によっては、薄く眼を開けるとボンヤリ白いものがフワフワ飛んだとか、明らかに人のカタチをしたものが体の上に乗っかって圧迫していたとか、なにやら怖い話になるのだが、幸か不幸かサッパリそういう霊感的な資質を持ち合わせていない自分の場合、金縛りとは要するに自分の体がどうにも動かなくなるという、アレのことを指す。むろん、今日では金縛りとはそういう霊的なものではまったくなく、「睡眠麻痺(sleep paralysis)」という一種の睡眠障害であると、「解明」されてはいるのだが……。
とりわけ2日目は不快で、「うわっ、2日連続かよ!」と、暗闇の中でむなしいツッコミをしたのだったが、この手の金縛りというのは、体が疲れている状態に浅い睡眠が加わり、一時的にもたらされる軽微の失調とみなされているようで、確かに体の疲れ+浅い眠り、という感覚はわかるような気がする。個人的にはすでに数十回の金縛りをこれまでの人生で経験しているので、「ああ、また来やがった」という程度ともいえるし、しかしやってくる時の微妙にイヤーな気配というか(なんとなくわかるのだ)、あれは何度やってもイヤなもので、それに金縛りに「かかっている」最中は、3次元世界での時間の流通とはいささか異なった時間が流れているような――ミもフタもない言い方をすれば要するに長く感じる――気もして、それに「しばらくうっちゃっておけばそのうち動く」ことがわかっているものの、「いや、このまま動かなかったらどうしよう」という恐怖はやはり何度やっても払拭できないもので、結果、腕や足をなんとか動かそうともがくことになる。
感覚を共有できない方には申し訳ないが、実はこの「金縛り」という現象が、筆者なりに見つけた『1Q84』の入り口であるので、もう少しだけお付き合いいただきたい。
これはぜひ笑って読んでいただきたい事柄で、そしてもしかしたら私の場合だけかもしれないのだが、金縛りにおいては、「よし、動いた! と思った体が実は動いていなかったことに気付く」という瞬間があるのである。つまり、動かない体を何とか動かそうと悪戦苦闘したあげく、ようやく右手一本動くようになり、ほら! 掛け布団から出して、いま、こんなに高々と手を挙げてるぞ、オレ、やったね! と思った直後に、「いや、違うわ。これって錯覚だ」ということがなぜか「わかる」のである。そして実際、手はもちろん、体は寸分も動いていない。こうした「失望」をまるで通過儀礼のように「経験」したのち、「しょうがない、解放してやるか」という感じで、ほどなくしてほんとうに体は動くようになるのだが、その際も、スーッと解放される、なんてものじゃなく、エイヤッ、と力を込めてようやく「あっ、動いた」という感じなのである。まったく金縛りとはいったい何なのか。私は少しだけ、そのことについて知っているようにも思うし、やはり何も知らないような気もする。やれやれ。
ここまで前ふりをして、さて、『1Q84』に入る。
【しかしなぜ、その音楽がヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だとすぐにわかったのだろう、と青豆は不思議に思った。そしてなぜ、私はそれが一九二六年に作曲されたと知っているのだろう。彼女はとくにクラシック音楽のファンではない。ヤナーチェックについての個人的な思い出があるわけでもない。なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。そしてまた、その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞りあげられているような感じがあるだけだ。青豆にはわけがわからなかった。『シンフォニエッタ』という音楽が私にこの不可思議な感覚をもたらしているのだろうか】
『1Q84』は「BOOK 1<4月-6月>」と「BOOK 2<7月-9月>」の2冊で構成された長編小説だが、「BOOK 1」の第1章、冒頭近くの部分である。仕事に向かう途中、首都高速道路の渋滞に巻き込まれた青豆、という変わった姓の女性が、乗っているタクシーのラジオから聴こえてきたFM放送について、自分がまったくその存在を知っているはずのない、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』について思いをめぐらせている場面である。自らの知力を結集したのとはまったく違う仕方で「すぐにわかった」というこの感じ。「身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞りあげられているような」感じ。ああ、「金縛り」っぽいよ、これは。
そしてこのタクシーの運転手(その後、二度と出てこない)がまたいかにも謎めいているのだが、彼によってもたらされた、首都高には実はところどころに地上に降りられる非常階段があり、まあそんなことをするのは本来なら禁じられているとは思うが、その非常階段を使えば、実は地上に降りられるはずだという、このうえもなく適切であり同時に不適切でもある「助言」によって、実際に青豆は三軒茶屋で下に降りることに成功する。そしてこの非常階段という――過去の村上春樹作品に即していえばどうしたってあの「井戸」を想起せずにはいない――装置によって、「1984年」ならぬ「1Q84年」がパックリと口を開けてしまうのである。