突然職場の上司から、「次の土曜日のAM9:00に重要な会議を行うので参加するように」というe-mailが届いたら、あなたならどうしますか? しかも一切の説明抜きで。しょうがないから出席する。まっ、そうでしょうね。たとえそれが狂ったように蒸し暑い八月で、ほとんどの人が夏期休暇を取っている時だったとしても、ぶつぶつ言いながらも休日出勤する。それが常識あるサラリーマンの対応というものです。無視したら査定に響くでしょうし。
けれども、あらかじめ”殺される”とわかっていたら、いくらなんでも出社する人はいないでしょう。いや、そもそも生死にかかわるような事態が待ち受けていようだなんて、普通は考えないか。
本書『解雇手当』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の主人公ジェイミーも、無論、そんなことは夢想だにしていませんでした。フィラデルフィアのダウンタウンにそびえ立つ三十七階建ての高層ビル、1919マーケット・ストリート・ビルディング。その三十六階にオフィスを構え、社長のデイヴィッド・マーフィー以下わずか八名ながらも、年商五億ドルを誇る金融サービス会社マーフィー・ノックス&アソシエイツが、ジェイミーの勤め先です。元々新聞社で働いていた彼のここでのお仕事は、広報担当として業界紙向けに金融商品のプレスリリースを書くことですが、これが時に実に悩ましい。といのも彼自身、会社がなんの業務をしているのかを完全には把握しきれていないためです。本来、“外”に対する窓口として、一番内部事情に詳しくなければならない立場の彼が、なぜそんな事態に陥っているのか。それはラインで活躍している他の社員が、ジェイミーを単なる文書作成屋としかみなしていないためです。実質的な仕事をしている彼らは、“排他的な集団(クリーク)”を形成し、ジェイミーとは決してうち解けず、彼を軽視する態度を隠そうともしません。そんな職場環境ですから、一ヶ月間も育児休暇を取った後で初出勤するのはなんとも気の重いことです。ましてや、休日の朝一とあれば……。とはいえ、一児の父となった身としては、一時的とはいえ転職して医療保険から外れる危険を冒すわけにもいかず、気分の乗らないまま出社します。
一方、“クリーク”たちはというと、期待と不安、そしてそれぞれの“思惑”を胸に、オフィスを目指します。もっとも、そのうちの一人イーサンだけは、他の面々とは異なる緊急の課題を抱えていました。最悪の二日酔い状態にある彼は、出社するやいなやトイレに籠城してしまいます。なんとも憂鬱な土曜日(ブルー・サタデー)の始まりです。
こうしてイーサンを除く全員が会議室に集まったところで、社長のデイヴィッドは、おもむろに告げます。
「ここは、いましがた全面的に封鎖された」
えっ? 何を言われたのか理解できない彼らに対して、追い打ちをかけるように、「わが社は廃業されることになった」と宣告。さらに、解雇のショックに怯える女性社員に対して、とんでもないことを言い放ちます。曰く、「わたしはきみをクビにしようとしているんじゃない。きみを殺そうとしているんだ。きみを、そして、この部屋にいる全員を。そのあと、わたしは自殺するつもりだ」、と。
ここまでで六十五ページ。そして、この直後に鳴り響く一発の銃声を期に、壮絶なサバイバル・ゲームが始まります。憂鬱な土曜日(ブルー・サタデー)から一転して、血塗れの土曜日(ブラッディ・サタデー)へ。一体全体、なぜデイヴィッドは全社員を抹消しようとするのか。金融サービス会社で、なぜこんなことが起きるのか。そして外部との連絡手段を断たれ、脱出不可能な工作が施された超高層ビルから、生きて無事帰宅できるのは誰か? 目まぐるしく展開するアクション・シーンを推進力に、次々と明らかになる真実を牽引力に、物語はハイ・テンションを維持したまま、クライマックスへと突き進みます。そして、待ち受ける衝撃の一文。怖いよ、これは。
一見、普通に見えた企業が実はとんでもない陰謀に加担していて、それを知ってしまった主人公が、命の危険にさらされながらも真相を暴く。そんな巻き込まれ型企業サスペンスは、ジョン・グリシャムの『法律事務所』(小学館文庫)を筆頭にいくつもありますが、こんな理不尽でイヤな事態を想定した作家は、ちょっと思い当たりません。さすがは2008年に出版されたミステリの中から、最強/最狂のバカミスを讃える、「第二回バカミス☆アワード」の最終候補作となった『メアリーケイト』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の作者だけのことはあります。いやいや、恐るべしドゥエイン・スウィアジンスキー。
ちなみに『メアリーケイト』は、「あなたのドリンクに毒を盛ったわ」という金髪美女の台詞で幕を開ける、巻き込まれ型タイム&スペースリミット・サスペンス。「スペースリミット・サスペンスって何だ?」と思った方。すみません、今思いついた造語です。でも、他に言いようがないんだよなぁ。なにしろある理由から“絶対にペアで逃げなくてはならない男女”が主人公なので。なぜ、そんな羽目になってしまうのか、色々想像してみてください。まず、当たらないでしょうが。そして、その目で確かめて見てください。仰け反ること必至です。
最後にトリビアなネタを一つ、作中で何度か引用される“モスクワ・ルール”--「見当ちがい、勘ちがい、まどわしを利用せよ」「行動のための時と場所を選べ」「おのれの本質に逆らうな」等々--ですが、これらは作者の創作ではなく実際にあるものです。興味のある方は、『ヌスムビジネス スパイの手口に学ぶ情報「奪取」術』(ソフトバンククリエイティブ)の中の、「モスクワの法則」の項を読んでみると面白いでしょう。他にも、「高層ビルから脱出する」なんていう項目もあり、なにやら本書と重なる部分があるような……それもそのはず、この本の共同執筆者の一人が、誰あろう、ドゥエイン・スウィアジンスキーなのですから。
何はともあれ、次々と予想を覆すストーリー展開にハラハラドキドキしつつ、ニヤニヤ笑える本書を読みのがす手はありませんよ。その際は、くれぐれも「訳者あとがき」は、読後に読むように。かなりネタをバラしているので、確実に読書の楽しみが半減してしまいますから。ご注意のほどよろしく。