巧みな文章を満喫したなぁ、という印象が残る、とても心地よく、味わいのいい文庫一冊。薄い文庫一冊でこんなにいい気分になれるのだから「文章」の力は凄いものだと改めて感心してしまった。
文庫カバージャケットに「二〇世紀初頭のイギリスにガードナー、ルーカス、リンド、ミルンの四人を代表とするエッセイ文学が一斉に開花した」とあり、この本にはその四人の文章を選んで編んである。
二〇世紀初頭の文章を、一世紀のちの二十一世紀初頭に読むのも面白いじゃないか、と思って本を買った。編訳者が巻末の解説に、正確にいえば八十年から九十年ぐらい前の文章だとある。それとともに「エッセイ文学」という言い方があるのだと知った。無論それ以前からエッセイはあったが、二〇世紀初頭のイギリスでにわかに注目され、多くの作家が競って書くことになった。掲載する新聞や雑誌の発展ということもあったのだろうし、読み手の知的レベルの高まりもあっただろう。日々の通勤途中に読む新聞に、ちょいと苦味の利いた、それでいてフフフと笑えるユーモアに満ちた一文が載っているのはいいものだったのだろう。
読み始めて、これだったらこの平成時代、今月の総合雑誌に載っていてもおかしくないと思うぐらいに、まったく古びていない。正確に言えば、古びていないどころではなく、この本の中のエッセイ(コラム)を載せた方がより喜ばれるだろうと思うほど面白い。
一世紀になろうという時間が経っていても、人の生活の中で起きてしまうこと、人間というのはこういうことをしてしまうもんだよね、という点をついているから納得して読んでしまう。人をよく観察している。
例えば。
書き終えてちゃんと封もして、あとは投函すればいいだけの手紙をポケットに入れたまま忘れてしまう。という一編がある。
そうか、90年前のイギリス人もこういうことをやりがちだったんだとおかしくなった。この、出さなければいけない手紙を忘れてしまうといったようなことについてのエッセイはいつの時代にも多い。つまり「誰もがやってしまうこと」だからなのだ。多くの人に経験があると思う。
そして、手紙で先方に伝えるべきことを伝えそこねていることで「私と友人の関係」はどういうことになってしまうか。となれば今も昔も変わりはない。方法はたくさんある。そこを書くから古びないままで、今日読んでも面白いわけだ。
ただ身の回りのことをありのままに書けばいい、といった安易な内容が多い「最近の日本」の雑文。人の心や行為のありように踏み込んだ理解、あるいはうがった解釈がない文章は、紙価を下げるばかり。その点、この一冊の中の一編一編を読み進むと、高いレベルのユーモア感覚や、皮肉な目で世相を捉えるとこういう風に語ることができるのだと、思いを新たにすることが多い。
読みながら、ここを紹介するといいな、と何カ所か付箋紙を貼ったのだが途中で止めた。これが良くて、これが少し落ちるといったものがない。どれも味がいい。
時間の約束をきちんと守ることがいいこととされるのは間違いで、遅刻したり、毎朝あわてたりするような人の日常がいかに創造力に富んでいるか、刺激的かという奇妙な視点からの一文など、アハハと笑いながら、そうかこういう風に見るとそうかもしれない、と、時間の約束を守る私は感心してしまった。時間の約束をきちんと守る人は、そのことで他人に迷惑をかけたりあるいは、時間を厳守することでもう事足りたと思いがちでつまらないという。こういうことを実に巧みな文章で深く書いている。参った、と思いながら笑ってしまう。
編訳者が若い頃に興味を引かれ、ずっと親しんできたというだけあって、訳文がこなれていて「書き手の意図」が確実に伝わってくる。一編がまるまる冗談という作品の、語り口の堂々たる態度に引き込まれ、真面目にとってしまいそうになる。しかし、言葉の端端に「あなた、真面目にとってはいけませんよ」という暗示がある。質のいい日本文なので、書き手の教養、生き方、あるいは読者を楽しませるコツを心得た「世相の裁き方」がしっかり読み取れる。
身の回りのことを軽く書く程度のエッセイなら書けるさと思っている人、あるいは雑誌に自分のコラム、ページを持っている方々に、読んで欲しいね。この程度に面白いか? 苦みがきいているか? 知的レベルが足りているか? 余韻があるか? 「たいした問題ですよ」それは。