1945年8月。終戦時の混乱に包まれた中国で、まだ3歳だった日本人男児が、家族と離れ列車でハルピンに向かった。両親は理由があって一緒にはいけなかったが、息子になんとか生き延びてもらうために、身近な中国人に託して列車に乗せたのだ。しかし、途中で列車はソ連軍機の機銃掃射を受ける。男児はその中国人に連れられて列車から避難するが、不運にも列車に乗り遅れ、何もない畑に放り出されてしまった。しかし、男児は生き延びた。ある中国人の夫婦にもらわれ、数奇な人生を歩み始めることになったのだ。
誰でも、自分がいまここに存在しているという事実は、無数の偶然の上に成り立っているということを意識したことがあるのではないだろうか。もしあのとき母親があの職場を選んでいなければ、もし父親があの日友人と飲みにいっていなければ――。自分につながる両親、祖父母の行動がもし何かひとつが異なっていれば、自分はこの世にいなかったかもしれない。そんな風に、自分がいまここにいるという事実は奇跡の賜物なのかもしれない、と思うことは誰にでもあるはずだ。
『あの戦争から遠く離れて 私につながる歴史をたどる旅』の著者・城戸久枝氏もきっとそんな奇跡を強く感じてきた一人に違いない。3歳で中国東北部の田舎に期せずして取り残された日本人の男の子が、無事に生き延びて25年後に日本に帰り、久枝氏を娘として授かるまでには、あまりにも多くの困難や苦境を乗り越えざるを得なかったからだ。一つでも掛け違いや異なる選択があれば、久枝氏も、この本も、世に現れ出ていなかったかもしれないのだ。しかしその奇跡は起こり、城戸久枝氏はこの世に生まれ、ノンフィクションライターとなって、その奇跡の中身を丹念に取材していった。
「父は、私の父になるまでに、どんな道を歩んできたのだろうか。
父のことはもとより、父の両親のことも、中国の祖母のことも――もちろんあの時代の戦争のことも、日本と中国が経てきた歴史のことも――私にはしらないことが多すぎた。
(中略)こうして私はある種の使命感にも似た思いを抱えて、二一歳の秋、中国へと旅立った。」(『あの戦争から遠く離れて』より)
中国と日本を行き来しながら取材を続けること10年。城戸久枝氏は、父と、その先につながる自分についての壮大な物語を『あの戦争から遠く離れて』としてまとめた。その劇的なストーリーと圧倒的な細部のリアリティは、大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞しただけあって圧巻だ。そしてのちに、その物語を久枝氏の父・城戸幹氏自身が自叙伝のような形でさらに詳細に書いたのが『「孫玉福」39年目の真実』である。また、今年の4月、5月には『遥かなる絆』というタイトルでNHKでドラマ化もされた。
物語の主役である城戸幹は、3歳で中国の田舎の村に残されたとき、自らの名前も分からなかった。もちろん中国語も話せない。が、ある家族にもらわれ、「孫玉福(スン・ユイフー)」と名付けられて中国での人生をスタートする。そのうち彼は、自分は中国人であるという自覚をもって成長していくが、10代も半ばになると、いくつかの契機によって徐々に自分が日本人であるということを意識せざるを得なくなった。
文化大革命の嵐が吹き荒れる60年代の中国で、日本人であるということがいかに彼を悩ませ、人生を変えていったか。その間に経験したいくつもの困難、回り道、そして、日本にいるはずの家族を探し出し日本に帰るのだという執念とも言える彼の行動――その一部始終こそがこの物語の核となる。
その並々ならぬ行動力が実り、城戸幹氏は、1970年に無事に日本への帰国を実現する。彼が「中国残留孤児帰国第一号」だった。驚くべきことは、城戸幹氏の帰国が、80年代に他の中国残留孤児たちの帰国が始まり、肉親との再会がメディアにもよく取り上げられるようになった10年以上前の出来事であることだ。まだ中国と日本の国交が途絶えていたとき、城戸幹氏は、全く独自の方法で帰国したのだ。
大きな時代の流れに翻弄されながらも自らの道を貫き通した人物の物語、といってしまえば非常にステレオタイプに聞こえるが、実際いま、これだけの歴史の中を生き抜いてきた人物が、自ら、そしてその娘が、詳細にその物語を書き記した例というのはそうそうないだろう。
まず、城戸久枝氏が、父の書『「孫玉福」39年目の真実』末尾の「解題」の中に記しているように、「残留孤児本人が日本語で綴った書物というのは、数少ない」。それは帰国した残留孤児の人たちの多くがいまなお、言語の壁に苦しんでいるからだ。そういう意味でも、中国残留孤児の歴史の一幕が、このような形で記録に残されたことは非常に幸運なことだといえるのかもしれない。