僕はミステリが好きだ。
が、古今の名作を網羅したり最新作は欠かさず読むといったほどのミステリマニアとは思っていない。
書店でタイトルを見かけ、これはと思って手に取ったものを読む――これは誰しも同じだと思うのだが、僕の場合には、ちょっと変わった嗜好がある。
それというのも、背景設定が、いわゆる欧米の警察や私立探偵ではないものに、より心惹かれるという癖(へき)だ。
舞台が旧い共産主義国家なんかだと、もうそれだけで垂涎である。
いつの日か、北朝鮮を舞台にしたミステリを読みたいと思う(部分的に舞台を借りている作品は、意外なほど多く、あるが)。
この夏に流行するスーツが綺麗にディスプレイされている表通りのブティックよりも、何が出てくるか判らない古着屋に心惹かれるのと同じ心理だろうか。
さて、そんなわけで本書のタイトル『ユダヤ警官同盟』に惹かれた――この、大げさなんだか脳天気なんだか、それだけでは判断のつかないタイトルには、実はちょっと切ないいわれがある。
さて、これは率直なところ、かなりの奇書だ。
帯の惹句に惹かれ、ちょっと風変わりなハードボイルドだと思って手に取ると、戸惑うことになるかもしれない。
もっとも、ヒューゴー、ネビュラ、ローカスというSFの大賞三冠に輝き、MWA賞とハメット賞の最終候補にもなったという、毛並みの良さを信じて読めば良いことなのかもしれない。
で、結論から言うとすこぶる面白い。
舞台はアラスカにある架空の地域、《シトカ》である。
現実の歴史の結節点にごく一滴のIF(もしも)を垂らすことで容易に想像しうる、あり得そうな舞台である。
そこではパトロールカーが空を飛ぶこともないし、謎の生命体や知能を持ったロボットが暗躍することもない。
敢えて史実や地理を気にしなければ「こんな街があったんだ」と言うほどにリアルな場所である。
物語は冒頭、素早いテンポで展開する。
アルコール浸りの刑事であるランツマンが、悔いの残る離婚後に一人で居住している安ホテルで疲れた身体を横たえようとするとき、別の一室で殺害された若者の屍体を、行きがかりから検分させられるところから始まる。
その安宿の名前が「ザメンホフ・ホテル」であるという冒頭を読み、「おや?」と思った人ならば、本書を楽しめる要素が大きく増すかもしれない。
ザメンホフとは、世界共通語エスペラントを大真面目で開発研究したユダヤ人学者の名前である。
シトカ地区は、イスラエル建国に「成功しなかった」ユダヤ人達が、米国による時限立法で住むことを許された、ごく狭い居住区なのだ。
屍体のそばには、本書の重要で魅力的なモチーフの一つである「チェス」が、ある有名な棋譜の途中で残されている。
実はランツマンは、チェスには一つの屈折した思い出を抱えていた。
それゆえにその盤面が何か彼に、刑事としての職業的な責任感以上の引っかかりを残す。
ここまでの展開は、いわゆる「最初に屍体を転がせ」的な本格推理の骨格であり、アルコール依存症のやさぐれ刑事が出てくる、いささか陳腐な筋書きとも言える。
「ありがちだな」と呟く読者を篩(ふるい)にでもかけるように、著者はそこから、シトカの成り立ち、そして南米文学のサーガにも似たランツマンと父との関係を、いささか間が悪いほどのテンポで執拗に描写し始める。
エジプトで虜囚となり、やがてモーゼに率いられてその地を出、ヨーロッパ全土、あるいは北米大陸にまで離散したユダヤ人の歴史への知識あるいは知識欲が、問われるところだ。
そこにまるで関心が無い人は、残念ながら巻を置くしかないというのが正直なところである。
今現在、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の聖地であるエルサレムに対して、世界の誰が合理的な答を持っていると言えるだろう?
ともあれ物語の枠組みは、ユダヤ教徒のメンタリティを中心として進行する。
が、言うまでもなく本書が、何らかの意味でユダヤ人擁護をその根底に持つわけではない――極論を言えば、むしろ逆とすら言えることが判る。
舞台はシトカ地区なのであるから、ランツマンを初めとし、誰もが「割礼」を受けたユダヤ教徒ではある。
ただ、ランツマンは信心深いとは言えない。
一方、ハシディズム派と大きく括られるユダヤ教原理主義がいくつも描写され、中でもとりわけ過激、かつ政治的にも闇社会的にも隠然たる力を持つヴェルボフ派が物語の中心を担うことになる。