哲学者中島義道の思考は、日本の日常にある。この本は、きわめて身近な生活経験のなかから生まれた。まずは、圧倒的な多数が思考停止状態になってしまっている「音」を対象に説教が始まる。それはなぜか。日本人として日本を愛していたい、この国で生きていきたい、からである。ユニークな体験的哲学書である。
ほとんどの日本論、日本人論は、欧米との比較で語られ、自虐的なものが多いようだ。しかし、この本は、これまでの比較日本(人)論と異なり、日本人であるということは、どういうことなのか、それを考えてみなさいと挑戦的である。平均的日本人の行動に、そして常識とされる生活環境に果敢に挑戦する。「音」との戦いを通じて、少数者の、個人の感受性が尊重されない、されにくいこの国の現実をとことん考える。実に興味深い。
周囲を見れば、エスカレーターや動く歩道の注意放送、駅の構内放送、電車やバスの車内放送、デパートやスーパーなどの宣伝放送、銀行、郵便局、コンビニの自動現金出納機や駐車場などのテープ音、商店街や行楽地のBGMや有線放送などなど、この国をすっぽり覆っているスピーカー放送。おそらく、これらは善意のもとに発せられる音であろうが、お節介で迷惑である、と。
「正義の念に燃えた徹底的で、組織的集団的戦いは地上で最も危険なものである」と中島氏はいう。数を背景にした集団行動、数の論理に潜む偽善に危うさを感じる。文字通り受け取ってブレイク・ダウンすれば、差し詰め、小さな親切は大きなお世話であり、大人なのだからいちいちお節介は御免被りたい、ということであろう。
落語にある田中幸兵衛の小言、人生幸朗・生恵幸子のぼやき漫才、などなど説教の類はいろいろある。しかし、中島氏の説教は、文化空間が発する注意・警告・奨励・勧告・禁止などのありとあらゆるサインにたいして能動的で行動的である。ときには我慢せず、戦闘的で、過激でさえある。
「書を捨てよ、町へ出よう」。かつて寺山修二氏は芝居を書いた。本を何百冊読んでも納得しないが、生活の一コマ一コマがヒントを与えてくれる。行動的に対応することを強調する。この本に書かれている事柄は、一握りの文化騒音・標語嫌悪症患者の戯言と一蹴されそうだ。しかし、大多数が、無自覚なままに、自分では何も決断せず、責任を回避し続け、いつも他人を責め続け、一方では「○○しましょう」などすっぽり管理放送と管理標語になじんでしまった日本に住み続けるためのまともな思索と行動のひとつの結晶である。
それは個人主義、自由主義の権化にも見える。他人事ではなく自分事である。ある意味では合理的でもある。もし、そのように受け取られるとすれば、この本の別の意図が窺えるようで、そのこと自体が面白い。