古本趣味というのは、一種独特の領域で、同じ本探しでも、新刊を相手にしているのとはまるで違う。これはあくまでイメージだが、つまり、新刊の場合はベルトコンベアーに乗って流れてくる本の中から、自分の気に入った本を選別するという感じなのに対し、こと古本の場合は、森のなかに分け入るようなものなのだ。自分がどこへ進むのかもわからない。目当てのものを見つけるというより、出会ったものを自分の関心に引きつけるというのに近く、どこから何が出てくるかまったく予想がつかない。そして、しばしば神秘的なできごとに遭遇する。
元は創元社の編集者で、現在はフリーの高橋輝次さんは、長年の古書愛好家で、もっぱら大阪、神戸を根城に、古書店や各種古本市に出向いては、自分にとっておもしろい本を釣り上げてくる。その蒐集の過程で作られた物語は、エッセイとしてこれまでに『古本が古本を呼ぶ』、『関西古本探検』などにまとめられてきた。蒐集対象はほとんど日本の近現代文芸で、雑誌や詩集にまで目配りする。どうしても必要な場合は、目録で少し気張って注文もするが、たいていは自分の足で、なるべく安い本を探し出すことを旨としている。古本も好きだが、古本散歩それ自体が何より好きなのだ。私も同じ流派だから、高橋さんの文章には刺激を受けるし、本書解説で扉野良人が書くように、読めば「今すぐにでも古本屋に駆け出したくなる」。逆に、どんなに立派な知見が書かれ、扱われている本が目も覚めるような極上の本であっても、「古本屋に駈け出したく」ならない古本の本は失格といっていい。
さまざまな古本話にあふれたこの本をかいつまんで紹介するのは難しいが、例えば関西の詩人や文学者、あるいは出版社や編集者などに、強い関心が寄せられていることは特徴の一つだろう。詩集など、世知辛いこの世の中ではまず売れず、もともと部数も少なく、背は薄く、変型も多く、扱いにくい分野の筆頭で、いまや古本屋の棚から追出される一方の絶滅品種といっていい。しかし、詩集は文芸の花で、たとえ本棚の一段でも、これを置いている古本屋は信頼に足るし、どことなく主人の心の余裕を感じるのである。
高橋さんは詩集が好きだ。それも、朔太郎、賢治、中也など教科書で教わる詩人や、戦後詩檀をリードした「荒地」のメンバーの詩集には触手を動かさない。それ、誰? と聞き返したくなるような、文学史に埋もれた関西の詩人をこっそり掘り出してきて、その背景をこつこつと探り当てる。まことにシブい趣味です。
冒頭の一編「神戸の農民詩人、坂本遼――木山捷平との交流」は、いきなりそれで、古本展で見つけた『坂本遼作品集』を「うれしかった」と書くところから始める。坂本は「竹中郁と並んで神戸を代表する全国区の詩人」だと称揚するが、少なくとも私は知らなかった。ここで高橋さんは、「ええっ、岡崎さん、坂本遼を知らないんですか」と驚かれるだろう。明治三十七年兵庫県生まれで、草野心平らの同人誌「銅鑼」の同人。後年、朝日新聞大阪本社の論説委員まで務めている。もっぱら但馬方言で、農作業に従事する者、あるいはその風景の哀感を詩に謳った。
高橋さんはこの詩人を、もとは、『兵庫の詩人たち』でその存在を知り、石神井書林の目録などで第一詩集を見つけるも高くて手が出なかった、といったアプローチを書いていく。
もちろん、坂本遼についての紹介もあるが、この対象に近づいていく感じ、また追跡の過程で新たに知った本や雑誌の紹介もいちいち書き付けていくところに、本書のおもしろさがある。野球の試合を、本番の前の練習風景から見るおもしろさに似ているか。追いかけ出すと、高橋さんの視野に向こうから、関連書が飛び込んでくるらしく、その興奮もちゃんと伝えられる。「追記」で、何気なくて手に取った『木山捷平全詩集』を、もしやと解説と年譜にあたると、はたして木山と坂本の交流についての記述が見つかった、というあたりは、古本愛好者としては「あるある」とうなずきたくなるだろう。本当に、強く念ずれば、磁力のように本が吸い寄せられてくるものだ。
そのほか「モダニズムの画家六條篤と、詩人井上喜三郎の交流」、「豊田三郎と紀伊國屋出版部」、「鴨居羊子の絵とエッセイに魅せられて」、「三國一朗の戯曲と青木書店のこと」など、文芸を中心に文芸趣味に陥らず、幅広い関心が高橋さんの本探しを加速させる。ふと手にした一冊の本から、あれよあれよと世界が広がり、芋づる式に本や雑誌が発掘されていく。じっさい、本文のあとに付けられた「注」や「追記」の量は半端ではなく、その後に見つかった本の報告も、見つけた以上は書かずにおれないという執念を感じるのだ。
また、本文の随所に括弧でくくられた雑感……古本巡りに疲れて(もう歳かなあ……)、名前を列挙したら故人が多いことに(無常を感じるなあ)、連日神戸や大阪に出かけて(ヒマですなあ)が、ときにブッキッシュな解説の羅列で単調になるのを防いでいる。「ぼやき」芸とでもいうか、高橋節というか、ユーモラスでなんとも楽しい。
本書のなかで唯一、異例な文章が「四方田犬彦『先生とわたし』を読む」で、古書とは何の関係もない。と思ったら、これは対象となった「先生」、つまり由良君美の著作『言語文化のフロンティア』は、若き日の編集者・高橋さんが手がけた本だったのだ。オドロキ! 高橋さん、このこと、もっと自慢してもいいですよ。