良質な評論は、ミステリーに似ている。論じる対象を不可能犯罪の被害者とするなら、作品を読み込んだり、作品が書かれた時代背景や作家の経歴などを調べる作業は、手掛かりの収集になぞらえられるだろう。集めたな手掛かりを踏まえてロジックを組み上げ、新たな読みという解決を導き出すプロセスは、名探偵の推理と何ら変わらない。
探偵小説や怪談といったアカデミズムの世界では異端視されてきたジャンルを研究している谷口基は、まさに名探偵。国文学関係の学会で研究発表を聞いたり、大学の紀要などで論考を読んだりしてきたが、「どこから見つけてきたんだ」という珍しい資料を駆使しながら、従来の定説を覆していく明快な論旨にはいつも驚かされていた。それだけに2009年5月、これまでに発表した江戸川乱歩、横溝正史、橘外男、山田風太郎などの論考をまとめた『戦前戦後異端文学論』(新典社)が上梓されたのは本当に嬉しかったが、今度は書き下ろしで、幕末から現代まで語り継がれている怪談が時代によってどのように変容したかを論じた『怪談異譚』を刊行した。明治、大正の埋もれていた怪談を発掘しているので怪談のブックガイドとしても役立つし、研究者にありがちな難解な文学理論や言い回しを振りかざすようなことは一切していないので、普通に怪談が好きなら気軽に楽しむことができるだろう。
怪談の名手だった三遊亭円朝が、代表作『真景累ヶ淵』(岩波文庫)の中で、「幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます」と語ったこともあり、欧米から科学文明が輸入された明治時代は怪談受難の時代とされてきた。だが本書を読むと、怪奇現象を「精神の異常や熱病の発作」が見せた幻影に過ぎないとする合理精神は、幕末の知識人のあいだにはすでに広まっていたようで、決して近代に入ってから登場した概念ではなかったという。
明治の文人墨客が、怪談が否定された時代にあえて怪談会を催したのは、急速な近代化によって破壊された江戸の面影を偲ぶためと思っていたが、明治人が生まれ育った幕末は、既に怪談受難の時代であり、怪談会もディレッタントたちのお遊びに過ぎなかったのだ。
幕末と明治初期では怪談をめぐる状況は変わっていないのに、なぜ明治の知識人は怪談を好んだのか? 著者は、明治初期に語られた怪談のパターンを分析し、神経が原因とされる怪異は幽霊(人間の怨霊)が起こすものだけで、狐狸・妖怪の類は、依然として何らかの怪奇現象を引き起こす存在と見なされていたことを明らかにする。さらに著者は、明治政府が「開化」を旗印に怪異を迷信や神経症の中に押し込めようとする一方で、天皇中心の近代国家を作るため国民に敬神愛国の精神を植え付ける大キャンペーンを行ったことを指摘。明治の文人が幽霊は神経病だが、狐狸妖怪は怪異を起こすかも……という曖昧なスタンスをとったのは、政府が霊を迷信と排斥しながら、神=天皇は崇めなさいというダブルスタンダードをとったことを皮肉るためだったとしている。
第一章までの流れをネタバレ覚悟で書いてきたが、これを読んだだけでも、著者が繰り出す鮮やかなロジックが理解できるのではないだろうか。著者は怪談を、権力者が隠蔽してきた“闇”を暴くための装置と位置づけているが、明治初期の怪談が敬神愛国キャンペーンの矛盾を指摘したことを考えれば、このテーマも納得できる。
日本の近代化は日本人の宗教観も変容させたようで、江戸時代までは、戦場で倒れた兵士は敵味方の区別なく供養していたが、近代に入ると、官軍として戦った兵士は神として崇める一方、賊軍の兵士は黙殺するようになったという。そのため戦争の犠牲者は怪談の主要モチーフになっていくのだが、皇軍の兵士が幽霊になる場合、神として国の繁栄を予言することは認められていても、自分を激戦地に送り込んで死なせた国家を恨むような霊を登場させることは暗黙のタブーとして禁止されていたとの指摘は興味深かった。ただ著者は、一見すると国の方針に従っているように見える怪談の中に、国家への怨念を紛れ込ませた作品が存在していたことも指摘しているので、怪談の奥深さも実感できる。
皇国イデオロギーを尊重する必要がなくなった戦後になると、怪談は戦没者の霊を登場させることで、戦争の悲惨さを後世に伝える「平和教材」の役割を担ったようである。作中では、ウルトラマンシリーズなどの脚本を手掛けた上原正三や松谷みよこの『ふたりのイーダ』(青い鳥文庫)といった今まではホラーの文脈では語られていなかった作品や、一九七〇年代に心霊写真やオカルトの解説本を数多く発表した中岡俊哉の業績などにもきちんと目を配りながら、戦後怪談の実像に迫っているので説得力がある。
圧巻なのは、木原浩勝と中山市朗が現代の奇談をまとめた『新耳袋コレクション』(メディアファクトリー)の中にも、戦死者の怨念を鎮魂する要素が含まれていることを明らかにした最終章である。『新耳袋』には因果律のはっきりしない怪異が多く、著者が取り上げた「八甲田山」も、八甲田山で車のトラブルに見舞われた大学生が六人の兵士の霊に襲われ、手や足を要求されるという不条理な物語である。ところが著者は、新田次郎『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫)などを手掛かりに、なぜ兵士の霊は六人なのか、なぜ霊は大学生の手足を要求したのかを見事に解き明かし、保守勢力の台頭などによって戦争怪談が下火になりつつある現代にあっても、無念の死を遂げた霊の声をすくい上げる怪談の機能が失われていないことを論証している。
怪談は、小説、映画、ネットを流れる噂話へも広がり活況を呈しているが、それらが体系的に論じられる機会は少なかったように思える。その意味で本書は、怪談やホラーのファンが作品の理解を深める一助になるのはもちろん、ホラー作家やホラー作家を目指す人にも最高の情報を提供してくれるだろう。怪談論といえば東雅夫の独壇場が続いていただけに、そこに別の視点を持ち込むことで風穴をあけた本書の意義は大きい。
明治時代の怪談集『幕末明治百物語』の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
『幕末明治百物語』 レビュワー/末國善己 書評を読む