正月休みにゴールデンウィークにお盆、休みともなると家族連れからお一人様まで多くの人々が、混雑をものともせず国内外へ観光に出掛ける。その観光の魅力とは、普段見ることのできない景色を目にして驚きや興奮を味わい、日常に戻った時の活力とできることにあるのだと思う。
タイ系アメリカ人の青年によって、2005年(日本では2007年)に刊行された初の著作である本書は、<能なしとガイジン、犯罪者と観光客の天国>タイを舞台に主人公それぞれの<観光>を描いた短篇集である。しかし、そこで行われる<観光>とは人々がイメージするようなものとは一味も二味も違う<観光>だ。
タイトルは『観光』だが、各篇の主人公は旅行に出て観光を楽しむなどとは程遠い環境に身を置いている。例えば、冒頭の短篇「ガイジン」の主人公である<ぼく>は、リゾート地のモーテルに経営者の母親と二人で暮らしている。そのため観光スポットも見慣れた場所なら、休暇で観光にやってくる外国人も見慣れた存在である。そんな<ぼく>には、変わった癖がある。観光にやって来た若いアメリカ娘を見ると、デートに誘い口説かずにはいられないという癖だ。毎回その場だけの付き合いで終わせられてしまう<ぼく>だが、ある日知り合ったアメリカ娘リジーをいつものように口説いてデートをしていた所、思わぬトラブルに巻き込まれてしまう。
外国人に自分たちの国を利用して好き勝手されるのは腹立たしい。しかし彼らに頼らないと生きていくことができない。どうすることもできない矛盾の中にいる大人たちは外国人のことを、お客ではあるが他所者の<ガイジン>として冷めた目で見ている。それに対して父親がアメリカ人の<ぼく>は、少なくとも父親と同じ国の人間には親しみを感じている。ところが<ぼく>もまた、当のアメリカ人から結局は<ガイジン>と思われてしまうという別の矛盾の中にいるのである。<ぼく>がアメリカ娘を口説くのは、母と自分を置いて祖国へ帰った父親への愛情とさびしさによるのかもしれなければ、混血児である自分がアメリカ人でもあることを認めて欲しいという気持ちの表れであるのかもしれない。それでも<ぼく>のしていることは、周囲の人間が考えるような馬鹿らしい行為なのだろうか?観光客を迎える側の視点から<観光>を描いた物語は、自分の力では変えることのできない現実において、人は何を頼りに生きて行くべきなのかを問い掛けてくる。
<ガイジン>の中には、<観光>以外の理由でタイにやって来る者もいる。「こんなところで死にたくない」に登場する老アメリカ人ペリーは妻に先立たれ、息子のジャックが住むタイに移住して介護を受けながら生活をしている。ペリーはアメリカから遠く離れた国で、ジャックとその妻でタイ人のティーダ、そして二人の孫たちと暮らすことにストレスを感じる。町に連れられても、車椅子に乗った自分の姿がどう見られているか気になり、少しも楽しめない。そんな日々に嫌気が差したペリーは、<こんなところで死にたくない>とジャックにこぼす。思い通りに体を動かせないという現実と、言葉の通じない息子の家族と共に暮らす日常。予想もつかなかった状況に戸惑い、現実を受け入れられないペリーは、自分のことしか考えられず息子たちの気遣いに気が付かない。それがある出来事によって、ペリーは徐々に家族と心が通じ合うようになる。そしてそれまで見えていなかった、どこの国の人間であろうとも家族であることに変わりはないという事実と、周囲の視線を避けることなく<ガイジン>として堂々と暮らす息子とタイ人の妻の気高さに気付く。それはペリーが一人の人間としての誇りを取り戻すきっかけとなるが、「ガイジン」の主人公の<ぼく>が進むべき道を示しているようにも見える。
観光において欠かすことのできない動作が、<見る>ということだ。海でも山でもそれを見る人間がいなければ風景ではなく、ただそこにあるものでしかない。それを見ている人間の目と感情というフィルターを通して、絶景であるなどの認識が始めてされる。訳者あとがきに、本書の原題『Sightseeing』は<sight>(視力・視野・光景・景色)と<seeing>(見ること・視覚)の合成語でもあると書かれているが、景色を見るということは作品の中でも登場人物の感情を映し出す重要な要素となっている。表題作「観光」では網膜剥離で失明寸前となってしまった母親が気分転換にと、息子の<ぼく>を連れて南の島のリゾート地へ旅に出る。母子は<観光>に出掛け、その途中に<景色>を<見る>というタイトル通りのことをする。そんな二人の目に映る互いの姿や海の景色とは、単なる観光旅行の一風景ではない。母親にとっては、いつ目が見えなくなるかわからないという不安を通して見る景色であり、<ぼく>にとっては母親が自分の姿も何もかも見えなくなるという悲しみと心配が投影された景色でもある。
本書で描かれる世界は、貧困や暴力、死の恐怖といった閉塞感に満ちている。物語の中で主人公たちの視点から見ても、始めのうちは絶望的な暗い景色しか見ることができない。しかし、ふとしたことで感情は変化し、それまで気付かなかったものが見えてくることもある。その現実を変えるかもしれない景色を見つけ出すことが、観光旅行を楽しむこともできない登場人物たちにとっての<観光>なのである。そこで描き出される<観光>の風景には、それまで見られかった希望や救いの光が見られ、強い印象を残す。
ここで物語が終わる作品もあれば終わらない作品もある。ただどれも、光を見つけ出した後にどのような人生を歩むのかという物語は残されたままである。作中で示唆されることもあるが、その後の運命まで描かれるわけではない。人によって幸福なものになるのかもしれないし、不幸なものになるのかもしれない。だが、どうなるかわからずおそらくは人それぞれ違うという所が、<観光>という言葉一つに様々な意味や多様性を宿した本書らしくていい。そしてその先の景色について想像を働かせて<見る>ということが、読み手がすることのできる贅沢な<観光>なのである。