こういった生活が日本人の理想のようでもある。また、二度とは取り戻せないまさに彼岸にある風景のようでもある。
梨木作品の言葉はひとつひとつがしっかりとした存在感を持っている。わたしが初めて読んだ梨木作品「からくりからくさ」は、ページをめくるたびに、ああ、とため息の出るほどの安堵感が心を満たしたものだった。この安堵感はどこから来るのだろう。
古き良き日本の風景、わたしたちがノスタルジーを抱くような風景を梨木作品は描いている。ありありと目の前にその風景が立ち上がり、花や草木、土の匂いまで漂ってきそうなその筆致はまるで田植えをしていくように紙に文字を植え付けているかのようだ。
わたしは幼少時代を山口県下関市で過ごした。当時の我が家は縁側や床の間のある古風な日本家屋で、広い敷地内には大きな庭もあり、多くの木が生い茂っていた。当時飼っていた犬は庭を存分に駆け回っていた。それがやがて父の転勤と共に都心へ越してくるや、二階建ての、縁側もない、庭もほとんどないようなそんな住まいになった。都心とはいえ郊外だったが、それから年月を追って開発が進み、自然とはどんどん疎遠になって行った。生活圏には人工物が溢れ、その中に切り取られた「自然」が細々と点在する、そんな生活に慣れてしまっていた。
梨木作品にはそんな置き忘れてしまったような、向こう側に行ってしまったような自然との対話がふんだんに盛り込まれている。特にこの「家守綺譚」はまさに自然とのエピソードで紡ぎ出された奇妙な、奇怪な話である。
亡くなった友人の住んでいた家に家守として住む駆け出しの作家が、彼岸と此岸を行ったり来たり。亡くなったはずの友人は掛け軸から出てくるし、住み着いた野良犬のゴローは主人の与り知らぬところでなにやら名を轟かせている。変な話である。だがこんなに変な話なのに、なぜだか安らぎ、時に笑い、時に涙してしまう。
主人公・綿貫征四郎に様々に訪れる怪異を、慈愛と諦念とをもって描いている。それはまるで人が死を受け容れるために、受け容れるまでに必要な手順のような気がしてならないと言ったら深読みをし過ぎだろうか。
友人・高堂の死を、サラリと受け止めている風ではある征四郎は、奇妙な再会をして以来、何度か「また来るか」と高堂に聞いている。その度に高堂は「また来るよ」と応えるのだが、それでも聞いてしまう征四郎は、突然の別れを遂げてしまった友人との、不意に空いてしまった空白を埋めているようでもある。そしてその空白は物語が進むと共に少しずつ埋まって行く。それは「主人公の成長」を表している訳ではなく、あらかじめこの物語が持っている寓話的な部分、故人に会うだとか、河童が出たり狸に化かされたりだとか、そういう部分が担っている、彼岸と此岸の境界の曖昧さというものを徐々に薄めていき、征四郎に境界をちゃんと認識させるという終着点に到着させるためのなんとも美しい道のりなのである。ふと踏み越えようとした征四郎に対して「こちら」と「あちら」は違うものであるとわからせる。いかに境界線が曖昧であろうとそこには決定的な違いがある。それを受け容れるまでの物語ではないだろうか。
自然というものには当然「生」と「死」がついてまわる。それをいつの間にか遠ざけて生活しているわたしたちにとって、死に対する免疫は弱まる一方であるように思う。この作品に感じる安堵感、それは失われた自然との共生に見る描写からだけではなくて、死に対する捉え方を、読み始めから読み終わるまでにゆっくりと変容させてくれる力を持っているから感じるのだと思う。
文明の進歩、開発の進む中、失われ取り戻せないであろう、かつて実際にあった日本の風景たち。そして死生観を優しく示してくれるこの作品は、これからも長く、多くの人に読み継がれて欲しい作品である。