年を取れば誰だって近しい人や友人を亡くす。極端な話ではなくて、何というべきか、様々な形で冠婚葬祭の多くに触れる機会が出てくる。
わたしがこの本に出会ったのはある友人を亡くした直後だった。学生時代からの友人で、彼と交流のあった多くの人間もまたそのことに驚きを禁じ得ず、感情の行き場に困っていた。みながそうだった。いや、少なくともわたしにはそう見えた。そしてわたし自身、人並みではあるが、驚き悲しみ、やがて命の行方や偲ぶということが、いったいどういうものなのか深く考えていた時期であった。
脳科学者である茂木健一郎氏が発表した作品「脳と仮想」は、脳というものから始まる人間の存在の捉え方と、その先にある「仮想」というものに対する向き合い方を描いた論考である。
近代科学が世界のあらゆるものを数式化することで無効化していった神秘的な事象が、本当に無効であるのかを小林秀雄やその他多くの言葉を用いて論じていく。やがてその考察は人間が現実世界をどう受け止めているかという問題にたどり着く。
すべての目に映る世界は、脳が一度入手した情報をもとに「再構築」し認知させている。そして目に映らない世界は、脳が「想像」している。目に映るもの、世界だとしているものは、脳がそう定義しているにすぎない。だからそれは確かに揺るぎないとしても、絶対的に揺るぎないものなのだろうか。まず「現実」を捉え直す必要がある。本書の論考は具体例を挙げながら進む。
ここで恥ずかしながらわたしは自分の両手を見つめた。そして目の前にある机を見た。こうしてわたしが目を使っているということは、脳がその像を作り出しているのだと考えた。それならそのように捉えてしまうわたしの脳はどうして作られたのだろうかと考えると、生まれてからこれまで疑いなく生きてきたこの社会がそう認識せしめたのか、この手を「手」と、机を「机」と認識するようにしむけたのか。そんな訳はない。厳然たる現実として、手や机は世界のどこに行っても、いつの時代にあっても「手」であり「机」なのだ。だがやはり、それをわたしの中に映し出しているのは脳である。ならばこの脳が、もはや地球上に生きる多くの人々と同等の認識力であることを祈るばかりである。
というくらいに本書を読みながら逡巡した。
またもう一つの命題「仮想」について、茂木氏は様々な考察を繰り返している。わたしたちが触れられる「現実」世界を認識するのではなく、別のものを考え出す。「仮想」とは、いったいなんなのか。本書はそれに対して非常に繊細に論じているように思う。行き過ぎてはオカルトの世界に迷い込んでしまうからであろうか。
わたしは今でも、命を絶ってしまった友人の姿を町なかで見かけることがある。ついどきっとして立ち止まったり振り返ったりしてしまう。この世界にはいないのだということを忘れて「ああ、久しぶり」なんて思ってしまうこともある。すぐ後に彼はいないのだと思い直す。
本書に出会って、よかったと思っている。
実は以前寄稿した「家守綺譚」にも通じるのだが、わたしにとって本書はこの世にないものに対する接し方を教えてくれるものであった。「ない」は「ない」ではない。現実も仮想も同じ脳が作り出しているのだから、思い馳せればやはりそこに「ある」ものなのだ。もちろん、何が何でもそう考えている訳ではない。ただ、そのくらいの振り幅でもって町に繰り出せば、また「彼」に会える。そんな気がしてならない。そうしてまた会えたら、こっそり笑って、心の中でわたしの中の「彼」の無事を喜ぼうと思う。