本書でとりあげられている太宰治、檀一雄、坂口安吾、池波正太郎、藤沢周平、幸田文、森茉莉、武田百合子、向田邦子ら15人の作家には、文士であることのほかに、もうひとつだけ共通点がある。それは読んでいると、思わずのどがゴクリと鳴り、胃がしくしくと泣きはじめてしまうような料理を書いているということだ。
「「う」はうまいものの略である。」と美味しい料理をスクラップし続けた向田邦子の「いわしの梅煮」は活字で見ているだけで、口の中に唾液があふれてくるし、作家武田泰淳の妻で、泰淳と過ごした富士山荘での日記をのこした武田百合子は、『富士日記』に「茄子にんにく炒め」や「やきそば(キャベツ、牛肉、桜えび)」といった、頁をたぐる手をとめて、そのまま台所で作りたくなるような日々のメニューを書きとめている。
古本酒場<コクテイル書房>の狩野夫妻は、こうした「紙の彼方にある料理」をスクラップし続け、スクラップするだけでなく、想像力を糧に、文士が書き、作り、そして食べた、「誰も食べることも飲むこともできない、でも目の前にある料理と飲み物」を、「文士料理」と名づけて一冊のメニューにした。
狩野夫妻の手にかかると、井伏鱒二の
「春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ」(『厄除け詩集』)
という愛嬌あふれる詩が、「蛸をぶつ切りにして器に盛り、ひとつまみの塩と酢橘を傍らに添える。」というメニューに早変りする。単に料理を再現するためのレシピ・ブックではなく、料理をしていたら、たまたま通りかかった狩野夫妻が、文士料理をつくる愉しさを語ってくれたというような、親しみやすさにあふれている。それは「目安」といった方がいいのかもしれない。「小説が、エッセイが、読み手によってまったく異なる色合いを帯び、ひとりひとりの心のなかに異なる形で刻みつけられ、また、時とともにその形を変えてゆくように」、料理もかわる。
本を読みながら漠然と、美味しそうだな、と心に残っていた料理が、想像以上に美味しそうなのが嬉しい。
本書にならえば、草野心平の「Symphony(シンフォニー)」を呑みながら、檀一雄の「大正コロッケ」を箸で割り、内田百閒の「オックスタンの鹽漬」をつまみ、宇野千代の「極道すきやき」をむさぼったあとに、吉田健一の「新橋茶漬」でしめる、のも夢ではない。作家15人の全53レシピをオールカラーの写真で掲載。
著者が古本屋の主人だけあって引用も絶品で、たとえば「酒豪にして剣豪」(荻原魚雷)の立原正秋からは、
「文化といってもいろいろな文化があった。
文化勲章や文化鍋のような文化もあった。ところがこちらは烏賊の塩辛をいかにおいしく工夫して食べるか、目刺をいかに上手に干して焼くかの本物の文化であった。はやりすたりがなかった。」(『その年の冬』「林の中」)
手軽に読めるが情報量が半端ではない。
ただ、どれだけ簡単に噛み砕かれていても、味噌でご飯を食らう石川啄木的食生活をおくっている人間からすると、自分で作るのは容易なことではない。この本の最大の救いは、作れない(あるいは作らない)不精な読者にも、実際にこの甘美なメニューが開かれているところなのかもしれない。
東京は高円寺の駅をおりて、北中通りを〈コクテイル書房〉まで歩けば、本をひらくように、「文士料理」が食べられる。メニューは日によって違うので、食べたいものを食べるには運と根気が必要だが、とにかく言えることは「茄子にんにく炒め」は鉄板だということ。茄子が苦手でなければ是非一度、お試しください。
読んでよし、眺めてよし、行ってよしの一冊。
ご馳走様でした!