★南欧そのものへのレクイエム
本書の感想を書いたものを、いくつかネット上で拾い読みしてみました。ポルトガル料理が食べたくなった、リスボンの街を歩きたくなった、新鮮なオレンジジュースが飲みたくなった……。確かに、まったく同感です。
本書の舞台となるのは、夏真っ盛りのリスボン。キリコの絵画を思わせる、時間の止まったようなポルトガルの首都。その白昼の町並みを「わたし」が歩き、出会った人々と語り合うわけですが、その道すがらで主人公は、肉と臓物の煮込みやインゲン豆のスープ、各種のリゾットなどに舌鼓を打ち、果物のスモルで喉を潤します。これが実に旨そうなんですね。
とはいえ本書は『地球の歩き方』ではないので、これだけでは終わらない。「わたし」がリスボンの路上で出会う人々は、ちょっと変わった人ばかりです。最初に出会うことになるのは、どこにでもいそうな麻薬中毒の青年。けれども二番目に出会う「足の悪い宝くじ売り」は、なんと「主人公が読んでいた書物の登場人物」なのです。
このように本書では実にさまざまな人物が登場しては「わたし」と言葉を交わしていきます。墓守や娼婦や運転手、未来を占うジプシーの老婆、国立美術館でボッシュの絵を模写する男、路上で物語を売る男、などなど……。そして死んだはずの友人や恋人、父親、偉大な詩人といった死者たちまでが立ち現れて、主人公と言葉を交わす。さまざまな時間が入り交じる、無時間的な道行きです。
とはいえ「死者と生者が出会いを演じる幻想譚」としてだけこの本を読んでしまうのは、ちょっともったいない気がします。確かに本書は「わたし」の死んだ友人や恋人、父親や、偉大な詩人といった人々へのレクイエムとして書かれています。けれども同時にこの書物は、ポルトガルという国家そのもの、ひいては南欧諸国全土への、壮大な鎮魂歌でもあるからです。
★病み衰えるポルトガルの姿
実際この書物の中では、ポルトガルがいかに近代から、そして「ヨーロッパ」から取り残された場所であるかについて、幾度も繰り返し語られます。たとえば「足の悪い宝くじ売り」はこういいます。
私たちポルトガル人は、今日では誰も話題にしなくなった「魂」を持った人間だ。ポルトガルやイタリア、ギリシャといった、地中海に面した人間は、遥か昔から現在まで「魂」を抱えて生きてきた。「無意識」なんか手放してしまいなさい。それは世紀末のウイーンのブルジョワが生んだものであって、私たち南欧人とは無縁のものなのだから、と。
このほか本書には「国立美術館に勤めるバーテンダー」という人物が登場しますが、彼の場合はまったく逆に、ポルトガルの後進性を攻撃し、その味覚を嘆きます。いわく、ポルトガル人はワインとジュースばかり飲んでいて、洗練されたカクテルの味を知らない、と。
このほか、ボッシュの絵を模写する男は、描き上げた絵をアメリカの豪農に売って生計を立てていますし、電車の車掌はサン・ペドロのモダンな建築をレゴ遊びのようだとくさします。また、パリやロンドンに負けまいと、土地の地主がお金を出して建てた「アレンテージョ会館」なる社交場は、いまでは訪れる人もまばらなレストランとなり、追憶の時間のなかで停止している状態です。
要するにこのリスボンでは、何もかもが時代遅れで都市的な洗練を欠き、そのくせ米国のような先進地域の経済力なしでは立ち行かず、都市景観は外来のモダンな様式によって虫食い状になり、誰もが追憶の時間をただ生きている。ここに描かれているのは真夏の太陽の下、病み衰えていくポルトガルの姿です。そしてこうした衰亡の兆候は、タブッキの生まれたイタリアや、ギリシャなどの地中海沿岸諸国を、おしなべて覆っているものなのです。
★没落する日本と『レクイエム』
ポルトガル、イタリア、ギリシャにスペインをくわえた国々は、現在ではその頭文字を取って「PIGS」という不名誉な略称で呼ばれ、いずれも深刻な経済破綻の危機に直面しています。
本書が刊行された1991年は、EUで通貨統合が始まり、統一によってバラ色の未来が来るかのように思われていた時代でした。けれどもギリシャに始まったPIGS危機は、そうしたバラ色の未来像が、虚飾に過ぎないことを露呈してしまった。「中心」として繁栄を謳歌する独仏に対して、南欧は「周縁」として病み衰える一方だったのです。本書はこうした現在の破局を、既に予見していたのかもしれません。
ただしここでのタブッキは、そうした南欧の窮状を声高に訴えたり、南北の格差を糾弾したりはしません。彼がここで書き綴るのは、逆にそうした衰亡の中に、陽炎のように立ち上る幻想の美しさです。野趣に溢れる料理の肉汁、詩と現実が交差する街路、熱に浮かされたように街を歩く愉しみ、そして死者の声を聞く愉悦……。それは南欧という周縁の地を覆う、熱病のような悦楽です。
私がこの本を読んで真っ先に連想したのは寺山修司の映画、なかでも『さらば箱船』でした。村中の時計が盗まれて、時間が消え失せた沖縄の村が、この作品の舞台。山崎努演じる主人公は、そこで自分が殺したはずの人物と会話を交わし、あの世とこの世を結ぶ郵便配達夫に手紙を託す。周縁的で無時間的な場所で、死者と出会う物語は『レクイエム』と実によく似ています。
この映画の舞台である沖縄は、彼の故郷である青森とは真反対の位置にありながら、彼の本籍地である青森県三沢市と同様、米軍によって時間が強制的に止められた基地の街であり、近代性から疎外された場所です。寺山は東京という中心に対して、沖縄や青森という周縁を対置し、その豊饒な闇を描き上げたのです。
けれども現在、周縁としてあるのは、こうした地方都市ばかりではありません。いま周縁の地として没落を迎えているのは、この日本という国そのものです。中国に見下ろされ、韓国に追い上げられ、ロシアの脅威に怯え、政治は停滞し経済も行き詰まり、自国の文化すらも見失おうとしているのですから。
アントニオ・タブッキの『レクイエム』は、ポルトガルという国はもちろんのこと、南欧諸国という広大なエリアの衰亡を描き、その豊饒な周縁性を、美しく綴り上げています。本書は単に異国情緒に溢れた、我々とは無縁の作品ではありません。本書は没落を迎える国でいかに美しく生きるかを説いた倫理の書であり、落日を迎えようとする現在の日本でこそ、読まれるべき書物なのです。