★家族の崩壊を描く幻想譚
本書は計8編の短編集で、ほとんどは現代を舞台にした幻想小説ですが、私が一番気に入ったのは『バックストローク』という作品です。ここには懸命に水泳に打ち込む、一人の少年が出てきます。ところがこの少年の家族は、ほとんど崩壊状態にある。本作はこの家庭が崩壊するプロセスを描いた幻想小説です。
父親はふだん画商の真似事のようなことをしていますが、実態的には遺産を切り売りしているだけで、昼日中から酒浸り。父親と母親の関係は冷めきっており、食事を作るのは女中まかせ。家運が傾きつつあるというのに、この家では女中を雇い、家事を任せきりにしているのです。
それでは母親は何をしているかというと、少年の応援に狂奔している。朝から晩まで水泳のタイムを記録し、トレーニングの専門書を読み、占い師に相談し、大会の応援に走り回る。しまいには家の小さな庭に、18メートルという妙なサイズのプールまで作ってしまう。
普通に幸せな家族なら、こんな過剰な応援はしません。少年が水泳の大会に出て、記録を作ってくれることだけが、この家族にとっての希望なのです。少年はそれに応えようと、黙々と練習を積み重ねる。ところが母親は少年の「記録」にしか関心がなく、水泳の専門書かグラフに向かうばかりなんです。
少年は水泳の練習に黙々と励む一方、家では納戸の中や冷蔵庫の裏にひきこもる。母親は記録をつけ、父親は一人で酒を飲む。まったくバラバラな家族です。そして彼らが唯一まとまる場所が、水泳大会の応援なんですね。つまり少年が記録を出すことだけが、この家族を支えているわけです。
★解離性家族と過適応
本来ならこの母親がなすべきことは、父親のアルコール依存をやめさせて仕事に就かせ、自分で家事を行うことです。ところがこの母親は、そうした生産的な努力はすべて放棄し、水泳の記録の整理にばかり没頭している。この家族の崩壊の原因は父親ですが、ある意味でこの母親は、酒浸りの父親よりも罪深いことをしています。彼女は父親の行為を黙認、助長するばかりか、家庭の盛り上げ役の責任を、少年に転嫁しているからです。
ここまで来ると少年への応援は「水泳の応援」を偽装した、一種の虐待であると言って良いかもしれません。そしてこの少年の心と体は、次第に幻想的な変調を来して、ついには取り返しのつかない破滅を迎えるのです。
ここまで極端な例は稀だとしても、アルコール依存やセックス依存のメンバーがいて崩壊寸前の家族というのは、私たちの身近にたくさんあります。こうした家族を心理学では「解離性家族」とか「機能不全家族」と呼ぶそうです。有名な例だと、連続幼女殺人事件の犯人として有名な宮_勤の家族がそうで、彼の家は六人家族なのに、四つしか椅子がなかったそうです。
こうした家族ではメンバーの誰か一人が、家族全体のバランスを取ろうとして、過剰なまでに勉学や労働に打ち込むことがあるといいます。こうした態度は「過適応」と呼ばれ、良い方に出れば「働き者の孝行息子」が出来上がりますが、下手をすると深刻なストレスや自死、過労死につながります。ここに描かれる少年の悲劇は、まさにそうした病理から生まれてくるのです。
★幻視者=作家であることの苦悩
さて、本作の語り手は少年の姉である「わたし」です。現在は作家となった彼女は一体、この家庭が崩壊していくプロセスに、どう向かいあったのでしょう。有り体に言えば、彼女は何もしていません。彼女はただ成り行きを見守っていただけの、きわめて無力な傍観者です。そして少年の決定的な破局は、この「わたし」が引き金を引くことによって訪れるのです。
本作は「わたし」が取材旅行で訪れた、東欧の強制収容所の場面から始まります。そこで「わたし」が目撃するのは、古いコンクリート製のプールです。このプールは強制収容所の看守たちが休暇を楽しむために、囚人の強制労働で作らせたもので、その向こうには処刑台が見えています。プールと処刑台の組み合わせは、弟が辿った破滅への道行きのアレゴリーです。「わたし」はこのプールで過去の出来事を思い出し、そこからこの物語は始まるのです。
かつて何のなすすべもなく、弟の破滅を見ていただけの傍観者であった「わたし」は、現在では作家として、やはりなすすべもなくナチスのプールを見つめている。取り返しのつかない負の歴史に対して、作家はなんら手の施しようもなく、ただ傍観するしかない。ここには本作の作者たる小川洋子自身の文学観に潜む、根本的な「暗さ」が現れているように思います。
ここに描かれた家族の崩壊は、ある意味でよくある話に過ぎません。どんな家族も大なり小なり、何かしらの病理をどこかに抱え、ごまかしながらやっているのが実情でしょう。ですが、そうした家族の根本的病理を、この「わたし」だけが鮮明に見てしまい、破局の瞬間に立ち会ってしまう。つまりここに描かれているのは、特権的な幻視者=作家であることの苦悩と無力感なのです。
★現代におけるカサンドラの悲劇
私がこの短編から連想するのは、ギリシャ神話に出てくる幻視者、カサンドラの物語です。彼女は未来を見通す力を持ち、イリオスの都が炎上するさまを、ありありと幻視してしまいます。ところが人々は誰もその予言を信じない。結果としてトロイの木馬から現れた兵士によって、この古代都市は炎に包まれる。カサンドラはその悲劇を、なす術もなく見守るほかないのです。
カサンドラが見るのは未来の炎による破局ですが、本作における「わたし」は逆に、取り返しのつかない過去の悲劇、水底に沈んでいく「何か」の姿を、ありありと目撃するでしょう。そこにあるのはいずれも「見てしまうこと」の悲劇、特権的な幻視者だけが感じる孤独な苦悩です。
幻想文学は単に現実と遊離した夢物語でなく、ときとしてリアルな描写以上に、現実の世界が抱える病理を明晰に、鮮明に描いてしまう。本作に描かれているのは、こうした幻視的な文学の孕む、根源的な苦悩なのです。
ちなみに本書のタイトルは『まぶた』であり、同名の表題作が本書には収められていますが、以上を念頭に本書を眺めなおすと、このタイトルはなんとも意味深長です。本書は文学という幻視の能力を持つことの悲劇、現代におけるカサンドラの悲劇をめぐって編まれているのかもしれません。